中央区外で知る在りし日の鎧河岸
こんにちは。Hanes(ハネス)です。
果物の美味しい季節がやってきましたね。
秋の果物のひとつにワインの原料にもなっているぶどうがあげられますが、日本におけるワインづくりが、2017年に140年を迎えたことはご存じでしたか?
先日、茨城県牛久市にある牛久シャトーを初めて訪問した際に、牛久シャトーの設立者と中央区の思いがけない関係を発見!
今回はその関係についてご紹介します。
牛久シャトーの敷地内には、その設立者にちなむ神谷傳兵衛記念館があります。
展示物の1つである神谷傳兵衛年譜を時系列順に追って見てみると、若い頃から名古屋、横浜、東京都内の各所と関係があったことがわかります。
その中で目に留まったのが、神谷が42歳の1898年、「東京日本橋区鎧河岸に神谷汽船合資会社を設置し運輸業をはじめる」という表記。
鎧河岸というと、源義家の逸話で知られる鎧橋あたりを思い浮かべますよね。
そして、メイゾン鴻乃巣の創業地も鎧河岸でした。
日本橋周辺の河岸地には、魚河岸、米河岸、塩河岸など取引のあった品にちなむ河岸がありましたが、鎧河岸はどのような河岸だったのか、実はこれまで気にして調べたことがありませんでした。
中央区立京橋図書館発行の「郷土室だより」159号によると、思案橋から箱崎橋の間、小網町二丁目と同三丁目の川沿いを、俗に鎧河岸と呼んでおり、現在の町名では日本橋小網町9番・8番・1番にあたりるそうです。
さらに明治5年まで、鎧の渡しの周辺には奥川筋船積問屋や米を扱う問屋が多く、活気のある市場となっていたのだとか。
奥川船積問屋とは、寛文年中(1661年~73年)より幕府から特許を得た問屋のこと。
36人に限定され、関八州・奥羽・越後・信濃などに向けた荷物や日光御参社・川御普請・諸侯参勤交代などの荷物の輸送を独占したそうです。
神谷汽船合資会社が鎧河岸に設立したのはこれより少し後の時代ですが、鎧河岸周辺には、国産洋酒の先駆者で、「日本のワイン王」と称された神谷が経営する汽船会社や、フランスの影響を受けたカフェーが軒を連ねるなど、日本橋の中でも海外の文化にゆかりのある場所だったようです。
時代の移り変わりとともに河岸地は失われましたが、こうして鎧橋から日本橋川を眺めていると、当時の活気が目に浮かぶようですね。
中央区は革新と伝統の融合が視覚的にはっきり分かる街ですが、時には目に見えないものに思いを馳せてみるのも悪くないかもしれません。
江戸~明治にかけての鎧河岸の変遷については、今後専門書にあたるなどしてより詳しく調べてみたいと思います。