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「消えゆく銀座の映画館」 

外堀通りを都電が走っていたころから銀座の街を見つめてきた東映会館

 

「日本俠客伝」「仁義なき戦い」「銀河鉄道999」——過去65年に渡って映画ファンの熱い視線を集めて来た東映最後の直営館「丸の内TOEI①②」が、この7月27日に閉館を迎えます。目下は亡き高倉健さんや菅原文太さんはじめ懐かしい顔ぶれが活躍する往年の100本近い作品を並べた回顧上映の真っ最中。長年、銀座の街で個性を競って来た映画館が、一つ、また一つと消えていくのは寂しい限りですが、これを機に、在りし日の個性派シネマのいくつかを振り返ってみると……

 「消えゆく銀座の映画館」 

 壁面には「さよなら丸の内TOEI」のポスターが


 外堀通りに面した銀座3丁目の東映会館は、内に本社と2つの映画館を抱えています。広々としたレトロ感一杯の「丸の内TOEI①」では、荒磯に波が砕け散るおなじみの映像がオープニングを告げ、やがて「〽せな(背中)で吠えてる唐獅子牡丹…」と、ドスの利いた健さんの歌声が。一連の「さよなら上映」の内、6月某日午後のスクリーンに掛かっていたのは「昭和残俠伝 唐獅子牡丹」(1966年公開)。雪の降る中、傘を手にした健さんと池部良さんが敵地に赴くシーンに、若き日、胸躍らせたファンは少なくないでしょう。

開館当時、「丸の内東映」と称したこの映画館が産声を上げたのは1960年9月19日。こけら落としの作品は沢島忠監督・大川橋蔵主演の「海賊八幡船」でした。かつては時代劇のイメージが強かった東映ですが、60年代以降は任侠ものから実録やくざもの、「五番町夕霧楼」などの文芸路線、「人間の証明」「セーラー服と機関銃」などの角川作品、アニメ…と時代の好みに沿った幅広い作品群を送り出してきました。

 「消えゆく銀座の映画館」 

オンラインでなく窓口でチケットを買う情景が似合っている?


ロビーで販売されているパンフレット「さよなら丸の内TOEI」のページを繰ると、折々の世相がありありと。開館間もないころの近隣写真では、今はこの地を去った読売や朝日など新聞社の旧社屋が映画館を囲んでおり、あちこちのビルの屋上には往年の会社名、昔流行った商品の広告が幅をきかせています。何より印象的なのは、劇場前に群がる熱気に溢れた観客の写真が多い事。そろそろテレビが普及し始めてはいたものの、映画は映画館で観るもの、という〝常識〟は揺るぎもしない時代だったようです。

しかし大理石を使って非日常空間を華やかに演出した建物も寄る年波には勝てず、この夏を最後に取り壊し、ホテルや商業施設として生まれ変わることに。閉館に際してはクラウドファンディングを実施し、劇場の緞帳やスクリーンなど備品の一部をキーホルダーなどに作り替えた小物をはじめ、座席そのものやフィルム缶なども返礼品に当て、往時をしのんでもらう算段だそうです。

〝フェードアウト〟が秒読みに入った「TOEI」を後にして、裏側の並木通りを京橋方面に少し進むと、左手の銀座2丁目3番地あたりに、四半世紀以上前に幕を下ろした名画座の跡地が見えてきます。その名も「銀座並木座」。今はヨーロッパの衣料品やスニーカーといったファッション関係の有名店が軒を並べていますが、映画館が入居した1953年当時、そこは人通りもまばらな裏道に建つ雑居ビルの地下室でした。

 

 「消えゆく銀座の映画館」 

かつて「並木座」があった路地にはファッショナブルな店が並ぶ


設立したのは、昭和の名プロデューサーとして映画界に大きな足跡を残した藤本眞澄氏。旧知のビル・オーナーから、印刷所として使っていた地下スペースが空いたため、新たなテナントを探していると相談され、二つ返事で引き受けて、邦画専門の名画座というユニークな路線を発案します。当時の映画館は封切り後一週間で次の作品に切り替わる短命上映だったため、見そびれる客が多いと踏んでのことでした。

開幕作品は源氏鶏太原作の「幸福さん」の一本立てで、田村秋子、三津田健主演。客席数は100に満たないミニ・シアターでしたが、ほどなく固定客が付き出しました。著名な俳優がお忍びで鑑賞に訪れることも結構あり、休憩時間には、カウント・ベイシー、エディット・ピアフ等のレコードをかけ、無料の週替わりプログラムを配布するなど、ちょっと知的で洒落た運営スタイルも人気を博したようです。

 

 「消えゆく銀座の映画館」 

通りの名前がそのまま映画館名になったと言われる

 

このプログラム「NAMIKI-ZA Weekly」は、1953年の開館以降、1957年ごろまで、ほぼ毎週発行されたもので、そのうち1号から100号までを収録した分厚い復刻版は中央区立京橋図書館などでも見ることができます。毎号の表紙を飾るのは小津安二郎、高峰秀子、森繫久弥、有馬稲子…らが無償で寄せた絵や文。作品解説やエッセイ、ファンの声、映画用語の説明など、中身も映画雑誌顔負けの充実ぶりです。

ただ時代が下るにつれ、「日本の名画」の上映という当初の路線は揺らぎ始め、外国映画に重点を置いたり、特定の監督やテーマに絞った企画を展開したりと試行錯誤が目立ち始めました。結局、施設の老朽化や映画人口の減少などから1998年に並木座は閉館。それでも評判を呼んだプログラムの無料配布は、細々ながら最後まで続けられたそうです。

 

 「消えゆく銀座の映画館」 

京橋の親柱の傍らにはかつて最新鋭のシネラマの劇場があった

 

ミニ・サイズの並木座とは対照的に、迫力ある大スクリーンが呼び物だった劇場も一足先に姿を消してしまいました。銀座1丁目の中央通り沿い、京橋の三基残った親柱のうち大正期の比較的新しい親柱のそばに1981年まで偉容を誇っていた「テアトル東京」です。この地では第二次大戦後間もなく別の名前の映画館が営業を始めていましたが、1955年の建て替えを機に、旧館は名画座として地下に潜り、新たな巨大スクリーンを持つ劇場が誕生したわけです。

お披露目の映画はM・モンロー主演の「七年目の浮気」で、一般的な横長のシネマスコープ作品でしたが、1962年にはシネラマと呼ぶ特殊なスクリーン・サイズ、つまり縦8㍍余り、横20数㍍の湾曲した巨大画面向けに制作されたH・ハサウェイ監督らの「西部開拓史」が登場。その後も、「ベン・ハー」「2001年宇宙の旅」など圧倒的なスケールを誇る作品が続き、観客を魅了してきました。

 「消えゆく銀座の映画館」 

最後の作品が掛かっている閉館間際の「テアトル東京」(京橋図書館所蔵)

 

 
ただ、さしもの大型画面の人気も長続きはせず、M・チミノ監督の「天国の門」を最後に、ほぼ四半世紀の歴史に幕を下ろすことに。熱狂的な映画ファンたちがこの映画館の終焉を惜しんで編集した小冊子には、開館当時の館内の雰囲気は格調が高く、支配人は毎日モーニング姿、下駄ばきの観客には草履に履き替えて貰った…という劇場関係者の証言も載っています。その後、跡地にはセゾングループのホテルが建ち、新たに劇場や映画館も併設されましたが、これらも経営難から2013年に幕引きとなりました。

 

 「消えゆく銀座の映画館」 
 「消えゆく銀座の映画館」 

昭和の香りが漂う「銀座シネパトス」のたたずまい(共に京橋図書館所蔵)

 

同じ年、もう一か所の映画館の閉鎖が新聞などを賑わしたのは、その立地と歴史が「戦後」を映し出していたからでもあるのでしょうか。銀座4丁目交差点から晴海通りを南東に少し進んだ地下にあった「銀座シネパトス1・2・3」。慶長年間に京橋川と汐留川を結ぶ水路として開削された三十間堀は第二次大戦中の空襲で生じた瓦礫の処理のため1952年に埋め立てられましたが、この地に架かっていた三原橋だけは都電が通っていたため撤去できず、橋げたを残したまま晴海通りを横切る形の地下街として生き延びたのです。

アーチ状の橋梁を天井として仰ぐ地下街は、特殊な構造ゆえか出店もスムーズとは言い難かったものの、曲折を経ながら1960年代後半には「銀座名画座」「銀座地球座」という2つの映画館が定着。1988年に「名画座」が「銀座シネパトス1」に、「地球座」が「銀座シネパトス2・3」の2館に生まれ変わりました。

もとより雑多な業態の店が群れ集う古い地下街とあって、どこかアウトロー的な印象が否めない上に、「地球座」時代にはアダルト映画の上映で名を馳せたこともあり、謹厳居士には二の足を踏ませる雰囲気も。しかし2009年、3館のうちの1館を本格的な名画座路線に転換してからは新たな固定ファンもつき、映画館の知名度も高まったものの、好事魔多し。東日本大震災を機に地下街の安全性を危惧する声が高まり2013年、閉館の憂き目を見ることになったのです。

 「消えゆく銀座の映画館」 

 

かつて地下映画街があった三原橋跡は今、アジサイなどの植え込みやベンチが並ぶ地上のミニ遊歩道となっています。古ぼけた映画館が醸した昭和の匂いはもはや漂っていませんが、数十年前、こっそり階段を降りて地下街に通った人、あるいはちょっとクセのある名画に酔いしれた人にとっては今も聖地であり続けるのでしょう。

 

▽主な参考資料
「日本映画史110年」四方田犬彦(集英社)
「さよなら 丸の内TOEI」(東映)
「銀座並木座 日本映画とともに歩んだ四十五年」嵩元友子(鳥影社)
「復刻版 銀座並木座ウィークリー」同編集委員会・編(三交社)
「昭和の東京 映画は名画座」青木圭一郎(ワイズ出版)
「巨大映画館の記憶」青木圭一郎(ワイズ出版)
「さよならテアトル東京」(シネマディクト事務局)

 

さよならTOEI公式サイト

https://marunouchi-toei-sayonara0727.jp/