■中央区歴史逍遥〈14〉 佃の渡し渡船場 ~旧船松町側の変遷~
佃大橋西詰北側に旧船松町側の佃島渡船場跡がある。佃大橋架橋前は、隅田川最後の渡し船としてこの場所から乗り降りしていた。説明板を読むと、江戸時代からここに渡船場があったように思えるが、果たしてどうなのか、資料を見ていこう。
江戸後期
安政期頃の古地図である。渡船の航路は、鉄砲洲川の河口から「佃の渡し」と「寄場の渡し」の2本が描かれている。寄場とは石川島の人足寄場(にんそくよせば)である。鉄砲洲川河口に架かる2つの橋は、明治大正期には河口側が「鉄砲洲橋」で、陸側が「小橋」であった。
この付近を描いた「江戸名所図会」には、俯瞰で眺めた渡船場の情景が映し出されている。
➊の場所が江戸期の渡船場で、➋は現在記念碑がある場所。➌は佃島側となる。
明治前期
明治期にはどうだったか。明治前期の地図では江戸期と同じく鉄砲洲川河口が渡船場になっている。
明治後期ー大正期
明治後期から大正期にかけての地図では、現在地と同じ場所(=佃大橋西側)に移っている。
江戸期の佃島渡船場跡はどこか
江戸期の渡船場跡を探す。Google Earthで見た付近図で、➊が江戸期の渡船場があったところと思われ、➋は現在記念碑が設置されている場所である。
鉄砲洲川は埋め立てられたが、現在、鉄砲洲川河口跡付近は「中央区立湊第一児童遊園」(湊二丁目16)辺りで、隅田川護岸には「下水道管埋設」の標識板があり、ここが川跡の痕跡。隣接して「汐見地蔵尊」(写真右)が鎮座している。(@AM )