今再び「新参者シリーズ」② ~ うぶけや ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をレガシーとして取材します、rosemary sea です。
日本橋人形町のうぶけやさんは天明3年(1783年)創業の、各種打刃物の製造販売を専業とした刃物店です。
創業地は大阪で、昭和44年まで、大阪本店がございました。
1800年代に入り、長谷川町(現在の中央区堀留町)に江戸店を構え、区画整理などの理由から明治維新の頃には近くの現在地に移りました。
うぶけやさんには和・洋包丁各種、裁ち鋏各種、毛抜各種、剃刀、和鋏(握り鋏)各種、諸流生花鋏各種、洋鋏各種、小刀各種、ナイフ各種が取り揃っています。
なかでも3大アイテムは包丁・鋏・毛抜。
店名は初代の㐂之助(きのすけ)さんが打った刃物が「うぶ毛でも剃れる・切れる・抜ける」と評判になったことがネーミング由来だそうです。
実はうぶけやさん、小説「新参者」(東野圭吾さん:著)の第3章『瀬戸物屋の嫁』に登場する刃物店「きさみや」のモデルとなったお店です。
小説「新参者」ではそのお店の商品である「食用バサミ」を買ってもらうよう依頼されたのに、調理用の「キッチンバサミ」を購入してしまったところが描かれています。
嫁・姑(しゅうとめ)の機微に触れた、すばらしい章です。
※ どちらも小説内の凶器とは一切関係ございません。
東野さんはそういう心配りをされて作品を描かれるかたです。
ですから今年7月12日の『今再び「新参者シリーズ」』① ~人形町きく家~の続きとして、また、2016年5月18日からの『今だから言える 新参者秘話」』の続編として、更に2017年12月13日からの『映画「祈りの幕が下りる時」ロケ地めぐり』のスピンオフとしても今回書かせていただきます。
うぶけや8代目、矢崎豊(やざき ゆたか)さんにお世話になりました。
それでは店主インタビューです。
お値段は税込金額のものは9月までの8%計算となっております。
ー お店の歴史から伺います。
今扱われている洋裁の『裁ち鋏』というのを日本で最初に売ったであろう、と、当店は言われています。
結局証拠がない訳でしょ。
ところが業界のかたとか時代考証をしているかたとかにお話を聞くと、『いや、お前のところだよ、最初に売っているのは。』と言われます。
『弥吉(やきち)』が日本で最初に裁ち鋏を作ったであろう、とされている職方(しょっかた・しょくかた)です。
明治の初めの頃に、近くの『外国人居留地』から(それまで日本になかった)このような裁ち鋏はお宅にできないか、とご依頼がありました。
その時の当主が見本の鋏を借りて、この西洋式の鋏を、うちに出入りしていた腕の良い弥吉に作らせました。
日本の職人さんはもともと腕が立ち、研究熱心です。
見本より数段良く切れる裁ち鋏を作り上げた、ということで評判になった。
当時国内では着物は裁ち鋏でなく「裁ち包丁」という裁断包丁で切っていました。
着物はほとんど直線裁ちしかありませんので、裁ち物用の鋏(いわゆる中間支点のX型)は発展してこなかったのです。
握り鋏(いわゆるU型)の大小のものを、裁縫用でなくいろいろな用途に使われていました。
裁ち鋏は洋服屋さんなどには評判でしたが、一般には浸透しなかった。
本当に裁ち鋏が浸透してきたのは大正・昭和の初めからドレスメーキングができ始めた頃。
そこ広がって、また戦後には一大ブーム、一般用にものすごく売れた時期がありました。
今はまた専門職のウエイトが大きくなってしまいましたが。
鋏類はお手入れしていただければ何年も使えます。
もちろん修理も承っております。
(息子さん・9代目の大貴【たいき】さん、「毛抜の口直し」をされています。)
毛抜のつまむところがありますね。そこを調整しています。
ー 「新参者」についてお聞かせください。
食用鋏(上画像左)とキッチン鋏(上画像右)の違いについて、よくお客さまから質問されることがあります。
明治の頃は、日本橋と葭町(よしちょう:現在の日本橋人形町)の花柳界が大変賑わっていました。
宴席の時に、芸者衆が食用鋏をちょっと懐(ふところ)にしのばせて、お歯の悪いお客さまがイカとか肉とか食べにくいものを、細かく切って差し上げた。
その原型がこれ、この大きさでした。
「懐中鋏(かいちゅうばさみ)」とも言われています。
こちらが評判になって、食材の変化とともに少し大きいサイズになり、材質も錆びにくいものになってきました。
そして自分で切る、介護に使う、乳幼児の離乳食に、と、今ではお客さまからの質問にはそう答えています。
恐らく東野圭吾さんもそのような説明をさせていただいた一人ではないかと。
僕か親父、誰が説明したのかわかりませんが。
東野さんもお客さまとしていらしていたようですね。
小説が発表された時から反響はありましたが、やはりTVドラマの時は売り切れどころの騒ぎではありませんでした。
(人気爆発の)食用鋏は受注で1年以上お待ちいただくことになりました。
キッチン鋏の方も、手の不自由なかたで、小さな食用鋏より大きなキッチン鋏の方がいい、というかたもいらっしゃって、そのままでは危ないから刃先を丸める加工を施してあげる、とか。
・・・こういうこともありました。
1年以上お待ちいただいたお客さまに連絡をとり、お買い上げいただいた後に、『残念だけど、(食用鋏を使ってあげたかった)祖父、先月亡くなったのよね。』と言われました。
とても辛かったです。
ー 二代目以降は「職商人(しょくしょうにん)」という形態をとっておられるとお聞きしました。
初代(㐂之助さん)は自分で作って売っていました。
それが2代目から変わったのは職人事情がありまして。
江戸時代は平和が続きましたね。
そうすると武器職人がどんどん職にあぶれていった訳です。
刀鍛冶とか、鉄砲鍛冶。
鉄砲鍛冶なんて銃口の中にらせんを切りますね。
相当腕が良くなかったら、精密な鉄砲はできません。
平和だからお稽古事も盛んになりました。
花鋏とか道具類の需要も出てきます。
また、食文化も豊かになり、菜切り包丁とか出刃包丁とかの、いろいろな用途別の包丁もできてくる。
そこで武器職人が家庭用刃物の製造に移っていった。
そこでうちも、自分で作るより、腕の良い職人に作らせて、うちで独特の刃付けをして売った方が機能的な訳で。
それで2代目から『職商人』という形態をとるようになりました。
(画像は毛抜各種です。)
ー 創業から230年以上、現在地でも150年以上のすばらしい歴ですね。
お得意さんとかは?
(脚本家・エッセイスト・小説家の)向田邦子(むこうだ くにこ)さんはちょうどお袋と同じ年代で、人形町界隈が大好きだったようです。
人形町でお買い物をして、ここでお袋と世間話をして帰っていく、僕はまだ学生か、修行に行っている頃かな。
包丁では『すきやばし次郎』さん。
柳葉包丁(やなぎばぼうちょう)って言って、刺身を切ったりお寿司を切ったりするのはうちの包丁です。
ー 大阪の本店はなくなったのですね。
大阪本店は昭和44年になくなりました。
うちは『江戸店』、支店としてできました。
当主としては大阪本店と江戸店を兼務していました。神戸のお店もありました。
大阪も神戸も跡取りがいませんでしたので、閉店を余儀なくされました。
僕にもし兄弟がいたら、僕かその兄弟が大阪に遣られたところでしたね。
ー 9代目の大貴さんはもう7年目の歴と伺いました。
あと5年、というところかな。
包丁は何十種類もありますが、ある程度基本ができるとあとはテクニックだけ。
でも包丁も、鋏も、毛抜も、道具類もやらなければならない。
技術はそれぞれ違います。
あと5年で全部やれるようにしてくれって言っています。
そうすると(現在66歳の)僕は70歳を過ぎるから。
ー お店の看板はいつ頃からのものですか?
看板は昭和の初めくらい。
うちは関東大震災で類焼してしまっているから。
その代わり、この前の通り一列は戦時の空襲には遭わなかった。
よし梅さんとかのところも大正の終わりから昭和初期の建物。
でも残念なことに、人形町の交差点から堀留方面にかけてはうちだけじゃないかな、残っているのは。
みんな変わってしまいました。
・・・矢崎さん、ありがとうございました。
・・・お知らせ・・・
中央区観光協会主催の「2019中央区わくわくツアー」が今年も11月30日まで開催されております。
その中の10月16日(水)開催『産業コース T 人形町界隈のまち歩きと「組紐 龍工房」・「打刃物 うぶけや」』は、今回ご紹介のうぶけやさん見学が含まれるコースとなっております。
より詳しい伝統の技、商品へのこだわりについて、店主の矢崎豊さんよりお話を伺える貴重な機会です。
ぜひご参加を!
※ このコースのお申込締め切り日は9月26日(木)です。
締め切り間近となっております。ご注意ください。
※ 応募人数が定員を上回る場合は抽選となります。
なお、ロズマリはこのコースのご案内役には加わりません。
詳細は中央区観光協会のホームページをご覧ください。
中央区観光協会のホームページはこちら
うぶけや
日本橋人形町3-9-2
東京メトロ日比谷線 人形町駅 A3~%の出口を出て
人形町交差点を自動車一方通行方向へ小伝馬町方面、
右側4軒め
03-3661-4851
営業時間 9:00~18:00(月~金)
土曜 9:00~17:00
定休日 日曜・祝日
うぶけやさんのホームページはこちら