にゃんボク

迷子石のサイドストーリー

先日、バブル期に流行ったJR東海のCMがネット上で話題になっていました。「きっと君は来ない~♪」の山下達郎氏の音楽に乗って繰り広げられるアレです。

時を経て今になって話題になった理由は、CMを微に入り細に入り分析をしたことが面白いこととCMが思わぬ形で世相を反映しているからということなのですが、牧瀬里穂さん演じる主人公は駅構内を急いで走り、見知らぬおじさんとぶつかって荷物を落とすシーンがあります。

そうです、携帯電話のない時代に広い駅で待ち合わせるのはリスクであり、遅刻の重みが今のようにメッセージアプリで気軽に連絡が取れる時代とは段違いなのです。だから、遅れまいと走る。(あのCMはサプライズで駅に会いに行った前提らしく、さらに遅れられない事情が背景にあったようです)その状況を想像できない世代は走っていること自体が「なぜ?」と思うのかもしれません。

さて、言うまでもなく江戸時代に大火などの災害や思わぬことで親子がはぐれた場合は今からは想像できないレベルの一大事だったに違いありません。

神田岩本町の山内庄蔵という人が迷子になっても見つけやすいようにと「迷子札を二千人分作って無料で施した」(明治11年・読売新聞)という記事もあります。

また神田に住む兼保 半次郎なる方は、明治7年(1874年)頃、迷子になった子供を探す手段として両国橋の東側と旧万世橋(めがね橋)西詰の2か所に「迷子石」を独力で建設し、「探す親」と「預かっている者」が子供の特徴を書いた紙を所定の位置に貼って情報のやり取りをしたとのこと。

明治39年(1906年)になると甲武鉄道(現在の中央線)の延長工事がお茶の水から万世橋に向かって進み、万世橋(めがね橋)の架け替えも必要になりました。甲武鉄道会社は橋のそばにあった「迷子石」の処分について兼保半次郎氏の遺族と交渉したとのこと。

「取り捨て終わるも名残惜しければとて 新万世橋際に移し、江戸時代無警察の当時を偲ぶ好記念として保存することとなれり(読売新聞)」と記載があったようです。しかし保存するといった「迷子石」は今では見当たらないとのこと。


そう考えると幾多の撤去の危機を乗り越えながらも一石橋のたもとにあり、現存する迷子石のありがたみも増すものだなぁと思うのであります。(冒頭の写真は日本橋から遠くに見える一石橋)