新川に架かる9つの橋
(シリーズ4回目:中央大橋)
佃公園(⇐ 中央区ホームページへリンク)から見た中央大橋。白い塔の真ん中にスカイツリーを収めようと撮影していると、ちょうど「エメラルダス」(松本零士氏がデザインした東京都観光汽船の水上バス)が目の前を通過していきました。
「新川」を起点に特派員活動をしている「New River」です。
今年も半年が過ぎ、早1か月、今回は久しぶりにこの文章で始まるブログとなります。といいますのも、前回の本シリーズ3回目(2023年11月27日公開)のブログで、高橋と南高橋を取り上げた後、翌月12月は加島屋さん(新川の酒問屋さん)と1年を振り返り、その流れで年明けは日本酒関連のブログが続き、その後もGWの伊豆旅行をきっかけに伊豆石関連のブログを書いてきたからです。
そんなわけで、何だか言い訳みたいになってしまいましたが(苦笑)、一連の流れも一段落しましたので、今回は「新川に架かる9つの橋(シリーズ4回目:中央大橋)」(※)をお届けしたいと思います。
(※)これまでの本シリーズは以下のとおりです。
・シリーズ1回目:湊橋・豊海橋(2023年7月24日公開)
・シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋(2023年9月26日公開)
・シリーズ3回目:高橋・南高橋(2023年11月27日公開)
はじめに
地図は「新川の跡の碑」付近にある「中央区エリアマップ」(平成18年(2006)3月、東京都建設局が設置した案内板)を基に作成しました。
これまで「新川に架かる9つの橋」と題して、3回にわたって7つの橋をご紹介してきましたが、そのうち「湊橋」「豊海橋」は日本橋川に架かり、「霊岸橋」「新亀島橋」「亀島橋」「高橋」「南高橋」は亀島川に架かっていました。
そして、本シリーズも残り2橋となり、今回は「中央大橋」ということで、東京の母なる川、隅田川に架かる橋となります。
<隅田川>
隅田川は、東京都北区の岩淵水門(⇐ 国土交通省関東地方整備局(荒川上流河川事務所)ホームページへリンク)を起点に、東京湾へ注ぐ全長23.5kmの一級河川で、かつては荒川の本流でした。
それは、明治43年(1910)の大洪水を契機に、明治44年(1911)に開削事業が始まり、昭和5年(1930)に竣工した荒川放水路(⇐ 国土交通省関東地方整備局(荒川下流河川事務所)ホームページへリンク)が、昭和40年(1965)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い、岩淵水門を起点として流れていた荒川が隅田川となったのです。
隅田川という名前の由来は、①隅田村(現在の墨田区の北部)を流れていた、②川の湾曲部である「隅につくられた田」があった、③「澄んだ川」が訛ったなど、諸説あります。
隅田川に架かる中央大橋
石川島公園(⇐ 中央区ホームページへリンク)から見た中央大橋。西詰北側(写真では橋の右側)には、リバーシティ21新川(平成7年(1995)6月竣工)がそびえ立っています。
中央大橋は、平成5年(1993)8月26日に竣工、同日、開通式が行われました。中央区内を流れる隅田川では、築地大橋(平成30年(2018)11月4日開通)に次いで2番目に新しい橋となります。新川2丁目と佃1・2丁目を結ぶ、東京都道463号上野月島線中央大橋支線が通っており、新川から大川端・リバーシティ21へ向かうときに通ります。
中央大橋の形式は「斜張橋」といって、橋上に逆V型の塔が設置され、そのてっぺんから斜めに張られた32本(8本×4)のケーブルで橋桁を直接つなぎ支える橋梁です。この斜張橋は、隅田川では昭和52年(1977)に竣工した新大橋(創架は元禄6年(1693))が最初で、中央大橋は新大橋に次いで2番目の斜張橋となります。斜張橋はその構造上、吊り橋に次いで、スパン(橋脚間の距離)を飛ばせる(長くできる)ので、川幅の広い場所に架けられます(橋の種類については、シリーズ1回目:湊橋・豊海橋(2023年7月ブログ)の「2.湊橋(みなとばし)」の中でも触れていますので、そちらもご参考ください。)。
【橋梁の諸元】
<形式> 2径間鋼斜張橋
<橋長> 210.7m
<幅員> 25.0m(車道11.0m、歩道6.5m×2)
<竣工> 平成5年(1993)8月26日
<管理者> 東京都
<施行者> 石川島播磨重工業(現「IHI」) 横浜工場
【株式会社IHI】
〒135-8710
東京都江東区豊洲三丁目1-1 豊洲IHIビル
TEL 03-6204-7800(代表)
FAX 03-6204-8800
ホームページ ⇒ https://www.ihi.co.jp/
平成5年(1993)8月26日の開通式。右側に写っている建物は建設中のリバーシティ21新川です(京橋図書館より提供)。
中央大橋の計画・設計
上)春のうららの隅田川、佃公園から見た中央大橋(令和4年(2022)3月30日午後2時ごろ撮影)。昭和54年(1979)までこの地に石川島播磨重工業(現「IHI」)がありました。
下)梅雨も明け、一年で最も暑い季節となりました(令和6年(2024)7月23日午後0時ごろ上の写真と同じ場所で撮影)。
中央大橋の橋桁は、石川島播磨重工業(現「IHI」)の横浜工場でつくられました。
同社は、嘉永6年(1853)、石川島(現在の中央区佃)の地に創設した石川島造船所をルーツとし、昭和54年(1979)の佃工場閉鎖まで、当地で造船をはじめ、様々な産業分野で常に時代の先駆けとなる重工業製品をつくってきました。そのため、隅田川初の大型鉄橋である吾妻橋(明治20年(1887))、厩橋(明治26年(1893))、勝鬨橋(昭和15年(1940))、新大橋(昭和52年(1977))、佃大橋(昭和39年(1964))など、隅田川の多くの橋の製作にかかわってきました。特に、中央大橋の下流側に隣接する佃大橋においては、架橋場所の間近にあった佃工場の立地を活かし、同工場で製作した巨大なブロックを海上クレーン船で運び、架橋現場でつなぎ合わせる大ブロック工法を日本で初めて採用し、大幅に工期を短縮させました。
さて、中央大橋の計画・設計は以下のとおりです。
<橋梁の形式>
全49案があり、東京都の関係者で編成された選定委員会によって審議・検討が加えられ、①隅田川を渡る道路事情により、桁高に制約があること、②その道路に平面曲線部があること、③大川端再開発地域のシンボルとなり、隅田川に架かる橋として容易に識別できる個性が必要であることなどの観点から、最終的に「2径間鋼斜張橋」が選定されました。
<幅員>
①緩傾斜型堤防に囲まれ、公園の一部としての要素があること、②災害時の避難路として利用されることを考慮し、歩道の幅員が6.5m×2、車道の幅員が11.0m(総幅員25m)となりました。
<橋脚の位置>
①上流側に隣接する永代橋、下流側に隣接する佃大橋の主航路中心点を結ぶ直線上に基礎を設置することを避け、航行船舶の視距を確保する必要があること、②中央大橋は道路に曲線部がある曲線橋であり、塔頂にかかる横力を緩和する必要があること、③左岸側に林立する高層ビル群に埋没しないように、ビル群とは距離を置き設置させる必要があることなどから、新川側に近い位置(1対2)に設置されました。
<橋桁の形状>
新川・八重洲通りから佃へのアプローチを考慮し、右カーブの平面形状(新川からアプローチした場合)となりました。
<塔の意匠>
大川端再開発地域のシンボルとなり、隅田川に架かる橋として容易に識別できる個性が必要であることなどから、当地に古くから伝わる「鎧(よろい)伝説」に基づき、昔、鎧島(よろいじま)といわれていたことを踏まえ、兜(かぶと)をイメージして製作されました。
鎧島については、「江戸名所図会」(江戸時代後期の天保5年(1834)と同7年(1836)に刊行された江戸のガイドブック)に「佃島の北に並んでいる島。いま石川島と呼ぶ(俗に八左衛門殿島ともいう)昔、家光将軍の時代に、石川氏の先代がこの島を拝領したことにちなむ。寛政4年(1792)にその石川氏が永田町(千代田区内)に屋敷替えになり、その跡地に人足寄場ができた。この島の旧名は文亀の江戸古図には森島と書いてあった。その書き入れに続けて「この島を一名鎧島という。むかし八幡太郎義家が〔鎧を収めて神体として〕八幡宮を祀った。石川大隅守居住の時代は、その庭にあったが、いまは鉄炮洲稲荷の境内にあるという。(後略)」」などと書かれています。そして、この八幡宮(八幡神社)は、今も鐵砲洲稲荷神社(中央区湊1-6-7)の摂社として境内にあります。私も本殿にお詣りした後は、必ず摂社にお詣りしています。
上流側の橋脚上に上流(永代橋方面)を向いて立っている、オシップ・ザッキン1937年作「メッセンジャー」です(京橋図書館より提供)。
石川島の歴史
前述のとおり、石川島は古くは森島または鎧島と呼ばれていましたが、寛永3年(1626)に船手頭の石川八左衛門が幕府からこの島を屋敷地として拝領し、代々居住したことから、石川島と呼ばれるようになりました。
その後、「鬼平犯科帳」で知られる長谷川平蔵の提言により、老中・松平定信が、寛政2年(1790)に無宿者(罪を犯したり、勘当されたりして戸籍から外された人)を社会復帰させるための施設として「人足寄場」(にんそくよせば)をつくりました。これは今日の日本の刑務所の源流となっています。
そして、嘉永6年(1853)にペリーが黒船で来航、その脅威を感じた幕府は、造船所の設立と運営を水戸藩・徳川斉昭に委任し、日本で最初の洋式造船所「石川島造船所」が誕生しました。
明治維新後、官営となっていた造船所は、明治9年(1876)に横須賀へ移転することになりましたが、移転を知った平野富二が跡地を借り受け(後に払い下げ)、日本初の民営洋式造船所「石川島平野造船所」を設立しました。
その後、「石川島平野造船所」は、明治26年(1893)に「東京石川島造船所」へ改称し、渋沢栄一が会長に就任。昭和20年(1945)には「石川島重工業」、昭和35年(1960)には「石川島重工業」と「播磨造船所」が合併し、「石川島播磨重工業」が誕生しました。
それから、昭和48年(1973)のオイルショックを皮切りに、造船不況、円相場の高騰などが起こり、高度経済成長は終焉を迎えました。このころ、同社 佃工場では製品の大型化や宅地開発が進む周辺環境の変化に伴い、操業に問題が生じてきていました。そこで、昭和54年(1979)、工場の集約・再編のため、ついに佃工場を閉鎖し、跡地を日本住宅公団(現在のUR都市機構)と三井不動産に売却したのです。
ちょうどそのころ、中央区は昭和28年(1953)をピークに人口減少が続いていて、いわゆる都心の空洞化が進みつつありました。そのような中で、この工場跡地を開発する「大川端・リバーシティ21計画」は、都心の居住空間の回復をめざした東京都の「マイタウン東京構想」の一環として位置づけられました。
そして、その計画の中に中央大橋の架橋も盛り込まれ、平成5年(1993)の同橋完成により、大川端・リバーシティ21に住む皆さまの利便性は飛躍的に向上したに違いありません。
なお、石川島の歴史については、大川端・リバーシティ21内、ピアウエストスクエア1階にある石川島資料館(⇐ 同資料館ホームページへリンク)(中央区佃1-11-8)において、造船所の創業から現在までのIHIの足跡とともに学ぶことができます。ぜひお立ち寄りください。
明治9年(1876) 東京全図の内の佃島。元々石川島と佃島は独立した島でしたが、後に埋立てられて一体化し、現在の形になりました。石川島には「造舩所」「造舩局」「東京府懲役所」の文字を見ることができます。また、佃島の南にある四角い島は「佃島砲台」(元治元年(1864)築造)です(「中央区沿革図集[月島篇]」(中央区立京橋図書館/平成6年(1994)3月22日発行)より転載)。
上)明治37年(1904)ごろの石川島造船所です(IHIさんより提供)。
下)空から見た石川島重工業。昭和時代に撮影された写真で、隅田川の分岐部に位置する石川島の地形と工場全体の様子がよくわかります(京橋図書館より提供)。
左)石川島資料館のパンフレット表紙に使用されている写真。館内・展示物の写真がコラージュされています(IHIさんより提供)。
右上)新川から中央大橋を渡ってすぐ右側にあるピアウエストスクエア1階に入っている石川島資料館。同資料館は「中央区まちかど展示館」( ⇐ 「中央区まちかど展示館運営協議会」ホームページへリンク)にも認定されています。
右下)石川島公園の「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」碑にある同資料館の案内図です。
大川端・リバーシティ21の誕生
東京駅八重洲口から八重洲通りを東進し、隅田川を渡るとき、逆V型の塔がシンボルの中央大橋は、まさに大川端・リバーシティ21の門(ゲート)となっています。中央大橋の特徴は、この塔とケーブル、さらには、佃方面に向かって右カーブしている橋桁だと思います。
昭和47年(1972)に中央区再開発審議会において「大川端作戦」が提唱され、昭和54年(1979)に日本住宅公団(現在のUR都市機構)と三井不動産が石川島播磨重工業(現「IHI」)から佃工場跡地を取得し、「大川端・リバーシティ21開発事業」がスタートしました。その具体プロジェクトである「大川端・リバーシティ21開発プロジェクト」の計画には「道路・橋梁の新設」も掲げられました。
それは、計画地の道路建設と併せて、新たな橋を隅田川に架け、対岸の新川地区を経て東京駅八重洲口にアクセスすることも盛り込まれた内容でした。そして、その橋が中央大橋となりました。
「大川端・リバーシティ21開発事業」は、昭和61年(1986)に着⼯され、平成22年(2010)の完成まで、20年以上の歳月をかけて行われた⼤規模再開発事業でした。こうしたこのエリアの開発は、その後の東京のウォーターフロント開発の先駆けとなり、新たな街並みを創り出しました。
【大川端の由来】 ※ 中央大橋東詰南側、佃公園にある説明板より転載。
昭和47年(1972) 中央区再開発審議会が「東京都中央区再開発基本構想に関する答申」を提出、「大川端作戦」が提唱される。
昭和54年(1979) 東京都が「大川端再開発基本計画調査」を実施。日本住宅公団、三井不動産が石川島播磨重工業から工場跡地を取得。
昭和56年(1981) 特定住宅市街地総合整備促進事業地区採択(現 住宅市街地整備総合支援事業)。
昭和57年(1982) 中央区が「東京都中央区再開発基本構想」を策定。
昭和59年(1984) 「大川端地区特定住宅市街地総合整備促進事業整備計画」を建設大臣が承認。都市計画決定。 佃・新川緑地、石川島公園の設置。
昭和61年(1986) 全体着工式。
昭和62年(1987) 公園工事着工。
昭和63年(1988) 佃島小学校移転開設、佃公園開設 (第1期)、住宅第1期入居開始、営団地下鉄有楽町線「月島」駅開設。
平成元年(1989) 佃公園開設(第2期)。
平成2年(1990) 石川島公園開設(第1期)、つくだ保育園開園。
平成5年(1993) 佃公園開設(全体)、中央大橋開通。
平成12年(2000) 石川島公園開設(第2期)、都営大江戸線「月島」駅開業。
おわりに
橋は、古来より川や谷などの障害物を越え、人々の往来を可能とし、村や街をつなぐインフラとして経済活動を支えてきました。中央大橋の開通によって、リバーシティ21から東京駅まで直線距離で約2キロ、バスに乗れば約12分で行けるようになり、この地区に住む皆さまの利便性は格段に向上したと思います。
私も昼休みに中央大橋を渡って佃へ行って帰ってくることが時々ありますが、そのたびに中央大橋の有難さを自分事のように感じています。
最後になりましたが、今回のブログ作成にあたり、IHI・コーポレートコミュニケーション部の竹内様には各種情報をご提供いただき、大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。
左)永代橋から見る大川端・リバーシティ21の夜景。まるでニューヨークのマンハッタンのようです(行ったことはありませんが…苦笑)。
右)月食の夜の中央大橋。令和4年(2022)11月8日午後7時ごろ湊公園(⇐ 中央区ホームページへリンク)から撮影しました。
【主な参考文献・資料等】
・「橋梁と基礎(第27巻 第3号)」(成瀬輝男ほか「中央大橋の計画・設計」)建設図書、1993年3月1日発行
・「DOBOKU技士会東京(第45号)」(伊東孝「東京の橋 下町の誌上橋めぐり④ 佃大橋、中央大橋」)東京土木施工管理技士会、2009年12月発行
・「中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋梁・橋詰広場 ー中央区近代橋梁調査ー」中央区教育委員会、1998年3月2日発行
・紅林章央「東京の橋 100選+100」都政新報社、2018年10月10日発行
・飯田雅男「橋から見た隅田川の歴史」文芸社、2002年6月15日発行
・株式会社IHI コーポレートコミュニケーション部「石川島からIHIへ 石川島資料館」(パンフレット)
・「都市とガバナンス(Vol.32)」(栗村一彰「住宅を取り戻してきた中央区のまちづくり -「人」を「まち」に残すために-」)日本都市センター、2019年9月発行
・「コンクリート工学(Vol.25, No.1)」(阿井俊雄「大川端・リバーシティ21 開発事業の展開」)日本コンクリート工学会、1987年1月発行
・東京都建設局ホームページ(江東治水事務所>特集>川のはなし)