New River

新川に架かる9つの橋
(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)

「新川」を起点に特派員活動をしている「New River」です。

今回のブログは「新川に架かる9つの橋」のシリーズ2回目ということで、7月のブログ(新川に架かる9つの橋(シリーズ1回目:湊橋・豊海橋))に続いて、霊岸橋、新亀島橋、亀島橋をご紹介したいと思います。

*上の写真は亀島橋から新亀島橋方面を撮影したものです。ここは日本橋水門の向こうに東京スカイツリーが見えるフォトスポットです!

はじめに

今回ご紹介する橋は、新川の北西(新川1丁目)から南西(新川2丁目)にかけて流れる亀島川の上流部、新川の北西に架かる3つの橋です。

亀島川は、日本橋川に架かる茅場橋(湊橋の上流側の橋)の下流右岸にある日本橋水門から隅田川合流部にある亀島川水門までの全長約1.1kmの一級河川です。

亀島川の左岸の新川、右岸の日本橋茅場町・八丁堀・湊のエリアは、隅田川に近い低地となっているため、高潮や津波に備えて2つの水門が設置され、この流域に住む人々の生活を守っています。

亀島という名前は、瓶を売る商人が多かったからという説やかつてこの辺りが亀に似た小島だったからという説があります。江戸時代には、亀島川の下流に幕府の御船手組屋敷(おふなてぐみやしき)と船見番所(ふなみばんしょ)も置かれ、江戸に入る船舶の検閲など重要な役割を果たしました。

ということで、今回のブログは、亀島川に架かる霊岸橋、新亀島橋、亀島橋を取り上げたいと思います。

 

 新川に架かる9つの橋
(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)

「新川の跡の碑」付近にある「中央区エリアマップ」(平成18年3月、東京都建設局が設置した案内板)を基に作成

 

<昭和の亀島川の風景>

 新川に架かる9つの橋
(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)

(上)復興局橋梁設計図集-霊岸橋-第5集(昭和5年刊)。橋の西詰北側(写真の左)には三井銀行日本橋支店がありました。

(下)亀島橋から新亀島橋を望む 中央区史(昭和33年刊)。亀島川の右岸(写真の左)には旅館があり、左岸(写真の右)には背の高い煙突もありました。

(提供:中央区立京橋図書館)

霊岸橋(れいがんばし)

新川には、江戸時代の初め、1624年(寛永元年)に雄誉霊巌(おうよれいがん、1554年(天文23年)~1641年(寛永18年))が創建した霊巌寺(れいがんじ)があり、明暦の大火の後、江東区白河へ移転したことは、7月のブログ(シリーズ1回目)でもお話をしました。ならば、まずは霊岸橋という橋名の由来となったその霊巌寺を見て来よう、と思い、東京メトロ半蔵門線と都営地下鉄大江戸線が通る、清澄白河駅近くにある霊巌寺へ行って来ました。

 

<霊巌寺>

霊巌寺は、正式には道本山東海院霊巌寺(どうほうざんとうかいいんれいがんじ)といい、阿弥陀如来がご本尊の浄土宗のお寺で、関東十八檀林(注1)の一つです。境内には、江戸六地蔵(注2)の一つの銅造地蔵菩薩坐像や松平定信(注3)の墓もあります。

来年、霊巌寺は1624年(寛永元年)の創建から400年を迎え、開創四百年記念事業ということで、山門・客殿庫裏の新築工事が行われていました。また、境内には幼稚園もあり、江戸時代からの学びの場を承継するアカデミックな雰囲気が漂っているような感じがしました。

(注1)関東十八檀林(かんとうじゅうはちだんりん)とは、江戸時代、浄土宗の僧侶養成を担った、関東地方にあった一八箇寺。古くは談所、談義所、談林ともいいました。(新纂浄土宗大辞典(しんさんじょうどしゅうだいじてん)より)

(注2)江戸六地蔵(えどろくじぞう)とは、江戸深川の地蔵坊正元(じぞうぼうしょうげん)が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ、無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、1706年(宝永3年)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一軀ずつ造立したと伝えられています。(境内の「銅造地蔵菩薩坐像」前にある説明板より)

(注3)松平定信(まつだいらさだのぶ)は、窮民救済のため、江戸市中に七分積金(しちぶつみきん)の制度を定めました。1872年(明治5年)、この積立金が東京府に引き継がれました。これによって橋梁や道路の修繕、ガス整備、養育院の設立などが進められました。渋沢栄一は、定信の顕彰をすすめ、伝記を編さんし、1929年(昭和4年)には霊巌寺で定信の百年忌を挙行しています。(境内の「松平定信墓」前にある「江東区 渋沢栄一ゆかりの地」説明板より)

 

 新川に架かる9つの橋
(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)

左上から時計回りに、①本堂(全体)、②本堂(拡大)、③松平定信墓(国指定史跡)、④銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一、東京都指定有形文化財(彫刻))

 

 新川に架かる9つの橋
(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)

(左)明暦江戸図(明暦3年 1657)「新添江戸之図」。この図は明暦大火直前に刊行された図として有名です。大火前、霊巌寺は亀島川の左岸(東側)にあったことがわかります。

(右)延宝7年(1679年)「江戸方角安見図鑑」5.二十  れいがん嶋・新堀図の左半分。この地図は上が西、右が北になっていますが、当時の地図(江戸図)は、このように江戸城のある西が上になって描かれているのが一般的でした。万治3年(1660年)に開削された新川も地図に載っています。

霊岸橋は左右どちらの地図にも描かれているようです。

これらの地図は、中央区立京橋図書館の許可を得て、「中央区沿革図集[京橋篇]」(中央区立京橋図書館、平成8年3月31日発行)から転載しました。

 

<霊岸橋>

さて、実際に霊巌寺を見て来たので、今度は本題の霊岸橋についてです。

霊岸橋は、日本橋水門で日本橋川から南西へ分岐した亀島川に架かる最初の橋で、新川1丁目と日本橋茅場町1丁目を結んでおり、永代通り(東京都道・千葉県道10号東京浦安線)が通っています。

創架は江戸時代初期で詳細は不明といわれています。ちなみに、上の「新添江戸之図」(1657年(明暦3年))や「江戸方角安見図鑑」(1679年(延宝7年))には既に描かれているようです。

1923年(大正12年)に関東大震災で被害を受け、1930年(昭和5年)に震災後の復興事業により、4径間鉄筋コンクリート桁橋(長さ41.3m、幅33.0m)として再建されました。

現在の橋は1985年(昭和60年)に架け替えられたものです。

また、橋の管理は東京都(東京都建設局)が行っており、今回のシリーズ(今後ご紹介予定のものも含みます。)の中では、他に永代橋と中央大橋が東京都(東京都建設局)の管理となります。一方、湊橋、豊海橋、新亀島橋、亀島橋、高橋、南高橋は中央区(環境土木部)が管理をしています。

中央区内の橋(管理者等)についてはこちら(中央区ホームページ/区内の橋梁)をご覧ください。

 

 新川に架かる9つの橋
(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)

(上)日本橋川から見た日本橋水門(形式:鋼製単葉ローラーゲート、径間:15m×2連、門扉高さ:8.1m、竣工:昭和46年度(東京都建設局HPより))、(左下)西詰北側の霊岸橋親柱、(右下)亀島川右岸(日本橋茅場町2丁目)から見た霊岸橋。護岸のヨシが大きく生育しています。

 

【橋梁の諸元】

<形式> 単純鋼床版箱桁橋

<橋長> 53.0m

<幅員> 33.8m

<竣工> 昭和60年3月

<施工者> 東京都

※ 橋詰に説明板がありませんので、霊岸橋を管理する東京都建設局 第一建設事務所(補修課)に問い合わせ、教えていただきました。

 

【霊岸橋が登場する文学作品】

霊岸橋は、例えば、以下の作品に登場しています(一部引用します。)。

■ 永井壯吉(永井荷風)「荷風全集 第十三巻」(日和下駄 第六 水 附 渡船)岩波書店、昭和38年2月、P.337

本所柳原の新辻橋、京橋八丁堀の白魚橋、霊岸島の霊岸橋あたりの眺望は堀割の水のあるいは分れあるいは合する処、橋は橋に接し、流れは流れと相激し、ややともすれば船は船に突当ろうとしている。私はかかる風景の中日本橋を背にして江戸橋の上より菱形をなした広い水の片側には荒布橋つづいて思案橋、片側には鎧橋を見る眺望をば、その沿岸の商家倉庫及び街上橋頭の繁華雑沓と合せて、東京市内の堀割の中にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮の夜景の如き橋上を往来する車の灯は沿岸の燈火と相乱れて徹宵水の上に揺き動く有様銀座街頭の燈火より遥に美麗である。

 

*霊岸橋は、第15回中央区観光検定テキスト「歩いてわかる中央区ものしり百科」(中央区観光協会、令和4年10月)P.66に載っています。

新亀島橋(しんかめじまばし)

新亀島橋は、霊岸橋の下流、亀島橋の上流に位置する橋で、新川1丁目・2丁目と日本橋茅場町2丁目・3丁目を結んでおり、東進すると、明正通り(めいしょうどおり、新川1丁目から新川2丁目まで)となり、西進すると、さくら通り(日本橋3丁目から八重洲1丁目まで)に接続し、東京駅へ行き着くことができます。

創架は1882年(明治15年)3月で、長さ約27m、幅約5.4mの木橋だったといわれています。

1923年(大正12年)に関東大震災で被害を受け、1926年(大正15年)に震災後の復興事業により、鋼桁の近代橋として再建され、幅も15mと3倍に広がりました。

現在の橋は1995年(平成7年)8月に架け替えられたものです。欄干は、地域と亀島川の歴史的な関わりを基調として「廻船」をモチーフとした装飾が施され、「歴史と文化を後世に伝える架け橋」として、江戸情緒がたっぷりと取り入れられ、浮世絵風の意匠を凝らしたものになっています。

新亀島橋の名前は、この橋の下流に位置し、元禄の時代から架かる亀島橋に対して新の字を冠し、新亀島橋と名が付けられました。

西詰南側には、太平洋戦争の東京大空襲で亡くなった戦没者を慰霊する「戦災遭難死者慰霊碑」(昭和二十年三月十日夜半の空襲により全町焼失の際に遭難された霊を慰むる碑 昭和五十三年三月十日 茅場町二、三丁目町会有志建之 発起人代表 神林 清作 石匠 高橋 正男)と関東大震災の被災者を追悼する「大震火災遭難者追悼碑」(大正十三年九月一日建之)があります。

 

 新川に架かる9つの橋
(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)

新亀島橋(日本橋茅場町2丁目(西詰)から東詰方向の明正通りを望む)

 

 新川に架かる9つの橋
(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)

(左)北側(霊岸橋側)の欄干のタイトルは「大川をのぼる廻船」。北側からは霊岸橋と日本橋水門が見え、その向こうには東京スカイツリーも見えます。

(右)南側(亀島橋側)の欄干のタイトルは「廻船の荷下し」。南側からは亀島橋が見えます。

 

【橋梁の諸元】

<形式> 鋼床版ラーメン橋

<橋長> 30.5m

<幅員> 15.0m 車道9.0m、歩道3.0m×2

<竣工> 平成7年8月

<施工者> 中央区

※ 西詰北側にある説明碑(1997年(平成9年)9月 中央区)より引用。

 

【新亀島橋が登場する文学作品】

新亀島橋は、例えば、以下の作品に亀島橋とともに登場しています(一部引用します。)。

■ 幸田文「露伴全集 第二十九巻」(談水 水の東京)岩波書店、昭和29年12月、P.515

○日本橋下に至り、終に一石橋下に至りて御濠に出づ。御濠は西の方滝の口に至り、南の方呉服橋八重洲橋鍛冶橋数寄屋橋に至るまで船を通ずべし。豊海橋より一石橋に至るの水路の中、南西に岐れて霊岸島と亀島町との間に去るものは、新亀島橋亀島橋及び高橋の下を下りて本澪に入り、兜町地先にて岐れて南西に去るものは、兜橋海運橋久安橋その他諸橋の下を過ぎて京橋川に合す。

亀島橋(かめじまばし)

亀島橋は、新亀島橋の下流、高橋(たかばし)の上流に位置する橋で、新川2丁目と八丁堀1丁目を結んでおり、東京駅へ向かう八重洲通り(新川2丁目から京橋1丁目まで)が通っています。

創架は1699年(元禄12年)で、1923年(大正12年)に関東大震災で被害を受け、1929年(昭和4年)に震災後の復興事業により、鋼上路アーチ橋として再建されましたが、戦時中の物資不足を補うため高欄等が供出されました。

現在の橋は2002年(平成14年)6月に架け替えられたものです。

亀島橋の名前は、亀島川の説明でご紹介したように、瓶を売る商人が多かったからという説やかつてこの辺りが亀に似た小島だったからという説があります。

西詰北側には、堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)の碑があります。これは、赤穂四十七士が吉良邸での討ち入りに参加後、この亀島橋を渡って泉岳寺へ向かったという話もありますが、安兵衛の住居がこの近くの京橋水谷町(現在の銀座1丁目)にあったことから、1969年(昭和44年)、八丁堀一丁目町会の皆さんによって建立されたものです。

また、八重洲通りを挟んだ西詰南側には「八丁堀を詠む  菊の花 咲くや石屋の 石の間(あひ)  芭蕉(五十歳)  元禄六年(一六九三)」と刻まれた松尾芭蕉(まつおばしょう)の句碑もあります(現在は句碑の文字が一部消えかかっています。)。この辺りは水運が良く、石材の運搬に便利であったため、石屋が多かったと思われます。

さらに、その横には「この地に移住し功績を伝えられる人物」として、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)と伊能忠敬(いのうただたか)の説明板もあります。また、以前は、説明板の後ろに「銀座の柳四世」もあったのですが、現在は残念ながらありません。

 

 新川に架かる9つの橋
(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)

亀島橋(八丁堀1丁目(西詰)から新川2丁目(東詰)方面を望む)。写真の左(西詰北側)に見えている石碑が「堀江安兵衛武庸の碑」です。

 

【橋梁の諸元】

<形式>鋼上路アーチ橋

<橋長>32.4m

<幅員>25.5m 車道17.5m、歩道4.0m×2

<竣工>平成14年6月

<施工者> 中央区

※ 東詰北側にある説明板(2002年(平成14年)6月 中央区土木部)より引用。こちらの説明板は「亀島橋 ~江戸から現代へ~ 新川の歴史」ということで、御船手組(将監河岸(しょうげんがし))と河村瑞賢(かわむらずいけん)の説明もあります。

 

【亀島橋が登場する文学作品】

亀島橋は、例えば、以下の作品に登場しています(一部引用します。)。

■ 藤沢周平「凶刃 用心棒日月抄」 新潮社、平成3年8月、P.71~72

 季節は、時おり梅雨のはしりと思われる雨を見るようになって、一日がいかにも長くなった。

しかしその長い日も、初村にしたがっていくつかの町を通りすぎる間に、ようやく暮れかけて来た。

 いそがしく人が行きかう道に落ちる光が、やわらかくなり、かわりに町には濃い影の部分がひろがっている。

「まだ、よほど先かの」

 又八郎が声をかけると、初村がはじめて又八郎に顔をむけた。

「あの橋を渡れば、すぐでござる」
 又八郎は初村が指さした橋を見た。ほんのわずかな日の光をとどめるだけで、大部分は濃い影に覆われている橋は、たしか亀島橋と言ったはずで、その先は霊岸島の町々である。

 

*亀島川と亀島橋は、第15回中央区観光検定テキスト「歩いてわかる中央区ものしり百科」(中央区観光協会、令和4年10月)P.66に、堀部安兵衛武庸之碑は、同テキストP.65にそれぞれ載っています。

おわりに

「新川に架かる9つの橋」のシリーズ2回目、いかがだったでしょうか?

このシリーズの連載を始めて(まだシリーズ2回目ですが)、改めて水の東京・中央区・新川を実感しています。

水は私たちの営みにとってなくてはならないもので、生活用水や工業用水、農業用水等に利用され、水上交通といったインフラにもなり、そして私たちに安らぎを与えてくれます。近年、地球温暖化・異常気象により海水面が上昇し、台風による高潮発生、さらには大地震による津波発生のリスクが高まっています。私たちは、防災と減災を意識しながら、上手に水・川・運河とつきあっていくことがとても大切であると思いました。

 

 新川に架かる9つの橋
(シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋)

亀島川右岸(八丁堀2丁目)にあるカフェから見た亀島橋。テラス席からの眺めは最高でした!

この日も暑い一日でしたが、川面を渡る風が心地よく、テラス護岸に植えられたヨシが大きく揺れていました。亀島川の両岸は、このようなテラス護岸がつくられていますが、残念ながら一般には開放されていません。早く緑の散歩道として整備いただき、歩いてみたいものです。 

 

【主な参考資料・引用文献等】 ※ 一部本文内にも記載

・第15回中央区観光検定テキスト「歩いてわかる中央区ものしり百科」中央区観光協会、令和4年10月

・「舟運観光ガイドブック  日本橋川・亀島川・神田川・隅田川(中央区域)」中央区観光協会、平成26年3月

・「中央区水辺利用の活性化に関する方策」中央区土木部管理課 、平成18年4月

※ 上記の他、橋梁の諸元等については、東京都建設局 第一建設事務所(補修課)および中央区環境土木部(道路課)のご担当者さまからも情報をいただきました。ありがとうございました。