新川に架かる9つの橋
(シリーズ1回目:湊橋・豊海橋)
「新川」を起点に特派員活動をしている「New River」です。
前回6月のブログ(高尾稲荷神社への想い ~「記憶のかけら」を未来へつなぐ~)では、新川から離れて日本橋箱崎町に足を運びました。そのとき、渡ったのが日本橋川に架かる湊橋でした。
今回のブログは「新川に架かる9つの橋」と題して、新川(*)に架かる9つの橋をシリーズでご紹介したいと思います。シリーズ1回目は、日本橋川に架かる湊橋と豊海橋です。
(*)かつて日本橋川と平行して東流していた新川ではなく、町名(住居表示)としての新川(新川1丁目・2丁目)となります。ちなみに、東流していた新川には、当時、3つの橋(一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋)が架かっていて、今でもその痕跡が残っています。そのことについては、また改めてご紹介できればと思います。
1.はじめに
新川は、江戸時代の初め、1624年(寛永元年)に雄誉霊巌(おうよれいがん、1554年(天文23年)~1641年(寛永18年))が創建した霊巌寺(れいがんじ、明暦の大火の後、現在地(江東区白河)へ移転)があり、北東は日本橋川、北西と南西は亀島川、南東は隅田川に囲まれていたので、霊巌島(霊岸島)といわれていました。
今回ご紹介するのは、新川の北東を流れる日本橋川に架かる湊橋と豊海橋で、どちらも関東大震災の復興事業で架け替えられた震災復興橋となります。そうです。今年は関東大震災(1923年(大正12年)9月1日(土)11時58分発生、マグニチュード7.9)から、ちょうど100年の節目の年に当たります。
<日本橋川>
日本橋川は、JR水道橋駅付近で神田川から分かれ、皇居の北側を南東へ流れ、日本橋を経て、日本橋箱崎町で隅田川に注ぐ全長約5kmの一級河川です。
歴史的には、徳川家康が1590年(天正18年)に江戸に入府した後、江戸の街づくりの一環として開削され、江戸城の大手口と隅田川をほぼ一直線に結ぶ運河として主要な役割を果たしてきた川筋で、江戸の繁栄と共に生きてきました。しかしながら、今では、そのほとんどが東京オリンピック(1964年(昭和39年))に合わせて建設された首都高速道路に覆われてしまっています。
<震災復興橋>
関東大震災発生の翌日、1923年(大正12年)9月2日に第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣が発足し、震災復興事業を担う特別な機関として同年9月27日に「帝都復興院」が設立され、その総裁に内務大臣として起用された後藤新平(ごとうしんぺい、元東京市長で医師)が就任(内務大臣と兼務)しました。彼は震災復興計画を立案・計画し、大規模な区画整理や道路・橋梁整備、公園建設を進め、震災復興事業の一環として震災復興橋を架けていったのです。
「新川の跡の碑」付近にある「中央区エリアマップ」
(平成18年3月、東京都建設局が設置した案内板)を基に作成
越前堀児童公園にある
「霊巌島」の由来が書かれた説明板
(昭和52年3月 霊巌島保存会)
2.湊橋(みなとばし)
日本橋川の第二橋梁(上流は茅場橋、下流は豊海橋)で、新川1丁目と日本橋箱崎町を結んでおり、新川から東京シティエアターミナル(T-CAT)へ向かうときに通る道(箱崎湊橋通り)となります。
創架は1679年(延宝7年)で、現在の橋は1928年(昭和3年)6月に再建された、震災復興橋です。
橋名は、江戸時代に水路交通の要所として栄えた「江戸湊」(えどみなと)の出入口にあったことに由来していて、1989年(平成元年)の整備事業で、当時の賑わいを示す象徴として、「千石船」のレリーフが2本の橋脚の上流・下流側にはめ込まれました。
なお、湊橋の上流側には「湊橋水道専用橋」(1977年3月、東京都水道局)が架橋されています。すぐ上の写真では左上に、一番上の写真では湊橋の手前(上流側)に写っている銀色のアーチ橋です。
【橋梁の諸元】
<形式> 三連コンクリートアーチ橋
<橋長> 49.68m
<有効幅員> 18.0m(車道11.0m、歩道3.5m×2)
<着工> 昭和2年5月
<竣工> 昭和3年6月
<施工者> 東京市
※ 南詰東側にある案内碑(平成2年3月 東京都中央区)より
※ 以下に橋の種類についてまとめましたので、ご参考ください。
橋には様々な種類があり、それらを形式で分類すると、①桁橋(けたばし)、②アーチ橋、③トラス橋、④斜張橋(しゃちょうきょう)、⑤吊橋(つりばし)等に分かれます。どの形式の橋にするかは、主にスパンといって、橋を支える支点間の長さによって決まり、上記の橋では、①から⑤の順にスパンを長くすることができるそうです。また、使用される材料としては、木、石、レンガ、鉄、コンクリート等があり、鉄の橋を鋼橋(こうきょう)、コンクリートの橋をコンクリート橋と呼んでいます。現在の橋のほとんどが鉄とコンクリートでつくられているのは言うまでもありません。
【湊橋が登場する文学作品】
中央区の橋は、数々の文学作品にも取り上げられ、湊橋は、例えば、以下の作品に登場します(一部引用します。)。
■ 藤沢周平「狐剣 用心棒日月抄」(「誘拐」の章)新潮文庫、昭和59年9月、P.166
二人は深夜の町を、静馬の後をつけて行ったが、静馬が高橋をわたって霊岸島に入り、長崎町からさらに新川に架かる一ノ橋を東にわたったところで、ふっと姿を見失った。
佐知ははるに、河岸を走って湊橋と霊岸橋の方角を確かめるように言いつけて、自分は新浜町の町通りに入って行った。はるは二つの橋まで走り、人影のないことを確かめると、南新堀町の東河岸を探し回り、町をひと回りして新浜町を通り、もとの場所にもどった。
■ 池波正太郎「剣客商売十三 波紋」(「消えた女」の章)新潮文庫、平成15年2月、P.25
春の、夜更けの道を歩むのも快いし、永山精之助は現代でいうなら警視庁の刑事に相当するわけだから、夜の闇を恐れることもない。
永代橋を西へわたりきった永山同心は、しばらく行って、湊橋を左へわたった。
このあたりは埋立地で「霊岸島」とよばれているが、塩や酒、乾物の問屋が軒をつらねている。
※ かつての永代橋は現在の架橋位置よりも150mほど上流にあったことから、永山同心は永代橋を西へ渡った後、湊橋を左(南)へ渡ったということになります。なお、この同じルートを1702年(元禄15年)12月14日、吉良邸で本懐を遂げた赤穂浪士一行も通って泉岳寺へ向かったといわれています(豊海橋を渡ったという説もあります。)。
湊橋の「千石船」のレリーフ
橋の上からは見えず、日本橋川を航行する
船乗りたちの目に入る粋な設計となっています。
3.豊海橋(とよみばし)
日本橋川が隅田川に注ぐ河口部に架かる、日本橋川第一橋梁(上流は湊橋)で、やはり新川1丁目と日本橋箱崎町を結んでいます。
創架は1698年(元禄11年)で、「乙女橋」とも呼ばれていました。現在の橋は関東大震災で被災した鉄橋(明治36年)を改架したもので、1927年(昭和2年)9月に再建された、こちらも震災復興橋となります。
この橋の特長は、重量感のある鉄骨を用いた、梯子を横にしたようなデザインであり、考案者のフィーレンデールの名を取り、フィーレンデール橋と呼ばれ、隅田川に架かる永代橋とのバランスを考慮して設計されました。わが国では豊海橋以外に数例しかない希少価値の高い橋であり、中央区の区民有形文化財(建造物)となっており、令和四年度の土木学会選奨土木遺産にも選出されました。
【橋梁の諸元】
<形式> フィーレンデール橋
<橋長> 46.13m
<有効幅員> 8.00m
<着工> 大正15年5月
<竣工> 昭和2年9月
<施行者> 復興局
※ 南詰西側にある案内碑(平成3年3月 東京都中央区)より
※ フィーレンデール橋は、外観からトラス橋の一種とされることがありますが、骨組み(ラーメン)が交差するところを補強(剛結)した、ラーメン橋に分類されるようです。
※ 復興局は、1924年(大正13年)2月に帝都復興院が廃止され、その後継組織として設置されました。
【豊海橋が登場する文学作品】
豊海橋も多くの文学作品に取り上げられ、例えば、以下の作品に登場します(一部引用します。)。
■ 幸田文「露伴全集 第二十九巻」(談水 水の東京) 岩波書店、昭和29年12月、P.515
○油堀はこれにして、これもまた仙臺堀と同じく木場に達するの渠なれば、二水共に材木船及び筏の多きは知るべきなり。深川側は既に説けり、日本橋側に在りては仙臺堀の對岸に神田川に達するの一水西北に入るあり、(既説)中洲の背後より箱崎と蠣殻町との間に存する一水あり、油堀と大川との會するところより下流に豊海橋の下を潜りて西北に入る一水あり。流に由りて溯れば、先づ
○豊海橋湊橋の下を經て
○鎧橋下に至る。鎧橋下の上流、思案橋親父橋下を過ぎて堀留に至る一支、荒布橋中橋下を經て同じく堀留に至る。一支に入らずして本流を追ひて上れば、江戸橋下に至り
■ 永井壯吉(永井荷風)「荷風全集 第二十三巻」(断腸亭日乗 三 断腸亭日記巻第十九続(昭和十年続)十二月七日) 岩波書店、平成5年10月、P.354
石の鳥居前の小径は直に新堀の河岸通なる豊海橋のほとりに通ずるなり。豊海橋鉄骨の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は明月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきらと輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送舩の舷を打つ水の音亦趣あり。
■ 平岩弓枝「御宿かわせみ傑作選1 初春の客」(「初春の客」の章)文春文庫、平成26年2月、P.8
南町奉行所の吟味方与力をつとめている兄の屋敷は、とっくに門のしまっている時刻であった。
屋敷を出る時から、心のどこかで、今夜は大川端町の、るいの許へ行くつもりがある。
神林東吾は仲間と別れると、自然、酔った足をそちらへむけていた。
豊海橋の袂から少しはずれて「御宿かわせみ」と小さな行燈が夜霧の中に浮かんでみえる。
星も月もみえない、しっとりとした晩である。
豊海橋より湊橋方面を望む(現在)
遠くに湊橋が見え、その向こうには首都高速道路が日本橋川を離れて
箱崎方面へ左にカーブする様子も見ることができます。
湊橋から豊海橋を経て隅田川に注ぐこの流域(約500m)は、
首都高速道路がないので、開放的で見通しがとても良くなっています。
豊海橋より湊橋方面を望む(昭和32年頃)
日本橋川両岸には多くの艀(はしけ)が停泊し、
舟運が発達していたことがわかります。
(提供:中央区立京橋図書館)
豊海橋(昭和5年頃)
橋の向こうは隅田川で、当時は東京湾も近かったと思われます。
まさに、橋名どおり「豊かな海」を感じる写真です。
(提供:中央区立京橋図書館)
4.おわりに
今回のブログは「新川に架かる9つの橋」のシリーズ1回目として、日本橋川に架かる湊橋と豊海橋をご紹介しました。
江戸時代、日本橋川沿いのこのエリアは、かつて日本橋川と平行して東流していた新川沿いのエリアと同様、諸国からの廻船で運ばれた酒類、醤油、味噌等の問屋が立ち並び、賑わいを見せていました。そして、今でも日本橋川右岸(新川1丁目)には白鹿を扱う辰馬本家酒造さんや白鷹さん(いずれも兵庫県西宮市が本社)、ヒガシマル醤油さん(兵庫県たつの市が本社)、ミツカンさん(愛知県半田市が本社)等の日本酒、醤油、食酢等をつくるメーカーの支店があり、ご商売を続けていらっしゃいます。また、左岸(日本橋箱崎町)には、先日訪れた高尾稲荷神社や「日本銀行創業の地」の記念碑もあり、江戸・明治時代の名残が残っています。
橋は、古来より川や谷などの障害物を越え、人々の往来を可能とし、村や街をつなぐインフラとして経済活動を支えてきました。また、人々の出会いや別れの舞台にもなり、数々の歴史やドラマを生み出してきました。
そんな橋について、シリーズ2回目(時期は未定ですが、亀島川に架かる霊岸橋、新亀島橋、亀島橋をご紹介する予定です。)でも、当時の様子を思い浮かべながら、橋の歴史と魅力をお伝えできればと思っています。
【主な参考資料・引用文献等】 ※一部本文内に記載
・「舟運観光ガイドブック 日本橋川・亀島川・神田川・隅田川(中央区域)」中央区観光協会、平成26年3月
・陣内秀信+法政大学陣内研究室「水の都市 江戸・東京」講談社、平成25年8月
・関東大震災からの復興 TOKYO強靭化プロジェクト(関東大震災100年特設ページ)
・土木学会関西支部「図解・橋の科学 なぜその形なのか? どう架けるのか?」講談社、平成22年3月
・五十畑 弘「図解入門 よくわかる 最新「橋」の基本と仕組み」秀和システム、平成25年6月