New River

高尾稲荷神社への想い
~「記憶のかけら」を未来へつなぐ~

「新川」を起点に特派員活動をしている「New River」です。

今回のブログは、前回のブログ(新川で100年、四代続く老舗酒屋「今田商店」)でお約束した「富久長」の手水鉢のいわれをきっかけに、高尾稲荷神社(日本橋箱崎町10-3)についてご紹介いたします。

はじめに

前回取材させていただいた今田商店さんから北へ向かって歩き、日本橋川に架かる湊橋を渡ると、住所は新川から日本橋箱崎町へと変わります。その湊橋の北詰東側にある案内板を右に見て、隅田川方面に歩いていくと、今回のブログの舞台となる、高尾稲荷神社があります。そう、この高尾稲荷神社に、前回のブログでご紹介した「富久長」の手水鉢があるのです。

高尾稲荷神社は特派員になる前に訪問したことがあったのですが、そのとき、なぜ「富久長」の酒樽が手水鉢になっているのかが疑問でした。今回、その疑問を解消するため、インターネットで色々と調べた結果、箱崎睦会さまのホームページ(http://hakozakimutsumi.kashiore.jp/)に行き着き、そちらのお問い合わせフォームから質問をさせていただいたところ、高尾稲荷神社の敷地をご家族で所有され、同稲荷社を設計された、だるま建築設計事務所(杉並区堀ノ内3-21-9)の一級建築士・宮坂 達(みやさか とおる)さんからご連絡をいただきました。

今回のブログでは、宮坂さんへのインタビューを通して、「富久長」の手水鉢をはじめ、高尾稲荷神社に散りばめられた「記憶のかけら」、高尾稲荷神社への想いをお伝えしたいと思います。

 

 高尾稲荷神社への想い
~「記憶のかけら」を未来へつなぐ~

湊橋の北詰東側にある案内板

◆ 高尾稲荷神社の歴史を教えてください

【高尾稲荷神社の変遷について】

社殿の位置は点々としています。元々、旧永代橋の西詰(現在の豊海橋の北詰)にあったのですが、日本銀行が建設される際に位置が変更となりました。更に、日本銀行から三井倉庫に売却された時に、現在の敷地に移転したということです。更には、一時期、箱崎4丁目付近に移設されたという話もございますが、確証は得られておりません。浮世絵には、永代橋のたもとには、稲荷社が2か所描かれており、そのどちらが高尾稲荷神社かは確証が持てません。

【高尾稲荷神社の由来について】

吉原の三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫(たかおだゆう)は、娼妓の最高位にあり、容姿端麗、和歌俳諧に通じ、比類のない全盛を誇ったといわれていました。その高尾太夫は、仙台藩主伊達綱宗候に寵愛され、大金を積まれて身請けされましたが、彼女にはすでに意中の人があり、操を立てて綱宗候に従わなかったため、万治2年(1659年)12月、ついに綱宗候の怒りを買って隅田川の三又(現在の日本橋中洲)あたりの楼船上で吊るし斬りにされ、川中に捨てられてしまいました。その遺体が数日後、隅田川の北新堀河岸に漂着し、当時、そこに庵を構えていた僧侶が遺体を引き揚げ、手厚く葬ったいわれています。そして、高尾太夫の不憫な末路に広く人々の同情が集まり、当地に社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り、高尾稲荷神社としたのが当社の由来です。

 

高尾稲荷神社ホームページ

https://takaoinari.tokyo/

 

 高尾稲荷神社への想い
~「記憶のかけら」を未来へつなぐ~

境内にある稲荷社の由来が書かれた案内板。

左側は「古今名婦傳 万治高尾」(歌川豊国)

 

【高尾太夫のお墓について】

高尾稲荷神社のご神体は高尾太夫の頭蓋骨です。高尾太夫は、道哲(どうてつ)という僧侶に想いを寄せていましたが、当地で高尾太夫の頭蓋骨を手厚く葬ったのは、道哲ではなく、前述した僧侶で、道哲は高尾太夫の胴体を引き取り、西方寺(昭和2年に台東区浅草聖天町から豊島区西巣鴨へ移転)に埋葬したということだと思われます。つまり、高尾太夫のお墓があるのは、頭蓋骨と胴体がばらばらに埋葬されていることだと考えられます。

また、春慶院(台東区東浅草)については、道哲はもともと島田権三郎(しまだごんざぶろう)という小姓で、出家する際に春慶院で修業をしたのか、あるいは三浦屋当主が春慶院の檀家だったなのかは定かではございませんが、このどちらかの理由で供養塔が建立されたのだと思われます。

 

 高尾稲荷神社への想い
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西方寺のお墓は現在非公開

 

 高尾稲荷神社への想い
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春慶院の高尾太夫の供養塔

◆ 今回(令和4年5月)の建て替えについて教えてください

高尾稲荷神社の存する日本橋箱崎町10番3の敷地は、宝田紙工業所(たからだかみこうぎょうしょ)が所有しています。宝田紙工業所は本業の紙裁断業を数年前に廃業(現在は不動産業として会社は継続)したため、敷地内の倉庫が使われなくなり、建て替えすることとしました。高尾稲荷神社も老朽化していたため、宝田紙工業所が町会に寄進する形で、あわせて改築することとしました。50年ほど前の高尾稲荷神社の建て替え時でも、先代の社長・故・宝田陽一(たからだよういち)が多額の寄付をし、建設しております。私は、宝田の長女の娘婿であり、その設計を依頼されました。

 

 高尾稲荷神社への想い
~「記憶のかけら」を未来へつなぐ~

宮坂さんが設計されたTKB高尾稲荷(※)の中に入る高尾稲荷神社。

令和4年5月に建て替えられ、斬新でスタイリッシュな稲荷社に生まれ変わった。

鳥居は鉄骨が利用されており、マンションの強度を保つ働きもある。

(※)TKBとは、Takarada Kamikogyosho Building の略

◆ 今回の建て替えでこだわったものは何ですか?

当初、稲荷社の建設を宮大工さんにお願いしようと考えておりましたが、愛される稲荷社となるためには、地元の大工さんに作っていただいたほうが良いのではないかと思い、地元の大工=普通の大工さんをご紹介していただき、建設していただきました。

高尾稲荷神社は、長年薄暗いものとなっておりました。こんな暗いところでは高尾太夫がかわいそうだと思い、建て替えにあたっては、屋根を透明なアクリル板にして、箱崎の明るい空や太陽を感じてもらえるようにしました。

◆ 高尾稲荷神社の「記憶のかけら」とは?

高尾稲荷神社の建て替えにあたって、この街の「記憶のかけら」をできる限り、埋め込んでおきたいと考えました。具体的には、①本殿、②本殿の土台(山車)、③参道の石、④心柱(お神輿の担ぎ棒)、⑤棟札、⑥手水鉢(酒樽)、⑦天井画・彩雲がその7つの取り組みです。

例えば、②の本殿の土台は、町会の倉庫に埋もれていた山車を、③の参道の石は、2世代以上前から使われている敷石を、④の心柱は、同じく埋もれていたお神輿の担ぎ棒をそれぞれ再利用しています。

また、⑦の天井画・彩雲は、女子美術大学や共立女子大学等で教鞭をとられながら作家活動をされている池田葉月さんに描いていただきました。過去の記憶のかけらではありませんが、この雲も箱崎北新堀の「記憶のかけら」の一つとして、きっと未来へつながっていくものと思っております。この天井画をベースとして、シルクスクリーンも作成していただきました。シルクスクリーンを販売し、その利益を高尾稲荷神社の維持管理費に使っていただこうとしています。

 

 高尾稲荷神社への想い
~「記憶のかけら」を未来へつなぐ~

高尾稲荷神社には多くの「記憶のかけら」が

散らばめられている。

 

 高尾稲荷神社への想い
~「記憶のかけら」を未来へつなぐ~

池田葉月さんが描いた天井画・彩雲

◆ 「富久長」の手水鉢に込められた想いとは?

日本橋川や箱崎川は、新川とともに、かつては日本酒や醤油などが荷揚げされていた河岸だったので、その記憶をどこかに埋め込んでおきたいと考えました。そこで、前述の「⑥手水鉢」を日本酒の樽で作り、「記憶のかけら」とすることにしました。

当初は、酒蔵の名称の入っていない、無垢の樽でデザインを始めましたが、どうもしっくりきません。そこで、方針を変えて、日本橋箱崎町に由来する酒蔵のものを使うことにしました。問題なのが、どこの酒蔵の樽にするかです。戦前の写真に、敷地そばの電信柱に「玉川白酒」「岩鷹」の看板が取り付けられているものがありましたので、これらの酒蔵を探しましたが、残念なことにありませんでした。

酒問屋の守護神として崇敬されている新川大神宮の境内には、沢山の酒樽が奉納されています。「白鹿」「白鷹」「日本盛」は新川、「大関」「賀茂鶴」は日本橋蛎殻町に東京支店がありますので、そのどれかにしようかと思い、それなら高尾稲荷神社から一番近い「白鹿」さんを訪ねることにしました。思いついたらすぐ動くので、現場帰りに「白鹿」さんを訪ねました。「白鹿」さんの立派なビルの前に立った時、自分の汚いジーンズ姿がガラスに映り、社会人としてこれはないなと思い、出直すことにしました。

いつものように、角打ちで一杯飲ってから帰ろうと新川の今田商店さんに立ち寄りました。店内の大きな冷蔵庫の上に飾られた「富久長」の酒樽が目に入ってきました。そういえば、今田商店さんのご本家は、広島で「富久長」を造っていたんだよなぁ。直感的に「富久長」の酒樽を使おうと思いました。今田商店さんが角打ちをやっているので、他の酒蔵よりも、このお酒とこの街の人々との距離が近いと感じたからです。

 

 高尾稲荷神社への想い
~「記憶のかけら」を未来へつなぐ~

手水鉢として利用されている

今田酒造本店(広島県安芸津町)さんの「富久長」の酒樽。

G7広島サミット(2023年5月19~21日)でも提供された。

◆ 改めて稲荷社への想いを語ってください

江戸時代より300年間、この高尾稲荷神社を大切に守られてきた箱崎北新堀町会の方々に深く敬意を表するとともに、この稲荷社の文化的・歴史的価値を重く感じております。今回の稲荷社の建て替えを契機に、町会の中堅・若手が街を盛り上げる取り組み(その1例がHP開設、SNS開設です。)も始まったので、私も微力ながらお手伝いすることにより、高尾稲荷神社の「記憶のかけら」を未来へつなぐことができればと思っております。

おわりに

今回のブログは、「富久長」の酒樽から端を発し、高尾稲荷神社の歴史、今回の建て替え、そして稲荷社に対する想いについて、宮坂さんから色々とお話をお伺いしました。取材にあたっては、貴重な資料・書籍、写真・浮世絵までご用意のうえ、大変丁寧にご説明いただき、宮坂さんの高尾稲荷神社を想う熱い気持ちをとても強く感じました。そして、それは、地元の皆さんの想いを大切にして建築物を設計する、建築士としてのプロ意識でもあるように思いました。

高尾太夫の生涯については、諸説あるようですが、今回の取材を通じ、300年の間、大切に守り続けてきた地元の皆さんの想い・伝統をそのまま受け継ぎ、未来へ伝えていくことがとても大切であることを教えていただきました。

宮坂さん、貴重なお話をお聞かせいただき、誠にありがとうございました。

箱崎睦会の皆さま、箱崎北新堀町会の皆さま、ご協力いただきまして、ありがとうございました。