(仮称)「江戸の髪型集と理容の歴史・大野グループの展開」 ①
~ Hair Salon ONO 艶出専科本店 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をレトロを大事に取材します、rosemary sea です。
1月10日の小猿さんアップの「初春の江戸の街ー日本橋室町にてー」の記事でもご紹介されたショーウィンドー。
一番下の店舗画像でおわかりいただけますとおり、ヘアサロン大野グループさんのお店「艶出(つやだし)専科本店」の建物左脇には、とても目を惹くショーウィンドーがあります。
まだ仮称の段階ですが、「江戸の髪型集と理容の歴史・大野グループの展開」と言うそうです。
手前に丁髷(ちょんまげ)が16種、奥には「理容歴史散歩」と「大野理髪店ーヘアサロン大野グループの歴史」が併記されています。
奥の「歴史」につきましては次回としまして、今回は手前の「丁髷」についてご紹介します。
こちらはヘアサロン大野グループさんが依頼された、「山田かつら」さんの制作による作品です。
皆さんも映画やドラマのエンドロールなどで、山田かつらさんはよく目にすると思います。
特に時代劇では昔から有名ですね。
かつら製造・床山結髪・ヘアメイクの山田かつらさん、創業は大正15年です。
TVドラマ・映画・舞台・オペラ・バレエなどのヘアメイク・かつら・ヒゲなどを幅広く担当されています。
今回も Hair Salon ONO 大野グループ 代表 大野悦司(おおの えつじ)さんにお世話になりました。
それでは最初に16種の丁髷をご紹介します。
上:銀杏頭(いちょうあたま:江戸初期)
下:蝉折(せみおり:天和~元禄)
銀杏頭・・・
室町時代に結われるようになった「二つ折り」と同じ型。
刷毛先(はけさき)が銀杏のように末広に広がっていました。
江戸の初期には武家や一般庶民にまで幅広く結われ、若者は髷が長く太く、年配になると髷は短く細くなっていきました。
蝉折・・・
天和から享保の頃まで、ある一部の社会に流行した髷風。
その形状は刷毛先を細くし、髷の先を上にそらして蝉の形の様にしたもの。
この髪を結ぶ人は相撲取り、侠客(きょうかく:任侠に生きる渡世人)、遊冶郎(ゆうやろう:放蕩者)などで、男伊達などが多く結いました。
上:奴髷(やっこまげ:江戸初期)
下:男髷(おとこまげ)
奴髷・・・
奴、すなわち下僕などの髷風は戦国以来、武家の間に素朴や簡略を尊ぶ気風が好まれました。
この髷はその精神の現れです。
髷が太くて短く月代(さかやき)が大きい、武家の奴、商家の丁稚(でっち)などが多く結いました。
男髷・・・
江戸時代初期の男性の髪型は「ふたつおり」が全盛、これを単に「男髷」と言いました。
髷の長さは若い人は長く大きかったですが、元禄以後は一般に小さくなりました。
鬢(びん)を突き出すことは寛永の頃から始まりましたが、左右の鬢が後ろに流れて髷をつくりました。
上:若衆髷(わかしゅまげ:江戸初期)
下:野郎髷(やろうまげ)
若衆髷・・・
江戸初期に「男色」が流行し、美少年(若衆)が演じる若衆歌舞伎が盛んになりました。
この髪型の特徴は髷が大きく、前髪と髻(もとどり)が突き出し、串刺しをしていることです。
中でも、魅力的な部分でしたのが前髪です。
その前髪が男色の証しとも思われていました。
この髪型は風俗上、厳しい取り締まりを受け、承応元年(1652)には前髷禁止令が出ました。
野郎髷・・・
承応元年に若衆歌舞伎が禁じられ、野郎歌舞伎となりました。
その若衆が前髪を剃り落とした髪型を「野郎髷」と言いました。
髷が特に大きかったので、この名前になりました。
上:撥鬢(ばちびん)
下:辰松風(たつまつふう:江戸初期)
撥鬢・・・
鬢の形が三味線のバチの形になっているもので、一説には宝永時代の浄瑠璃太夫の江戸半太夫が始めたとも言われています。
ですが、天和の頃にはすでにあった風俗で、中流の町民、商人たちがこの鬢を様々な好みにしていました。
辰松風・・・
享保年間の末、浄瑠璃の人形遣い・辰松八郎兵衛によって創始された髪型です。
人形を遣う時に仰向く(あおむく)と、髷がそっくり返り、襟の中に入るのを嫌って、髷の根を高くして、元結を多く巻木、針で止めるという工夫がされています。
毛先は短く先端は細くして、頭を指すような形にしました。
上:日本駄衛門(にっぽんだえもん:歌舞伎に登場)
下:袋付(ふくろつき:町人の一般的な髪型・歌舞伎に登場)
日本駄衛門・・・
河竹黙阿弥作の歌舞伎狂言「青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなのにしきえ)」に登場する「白浪五人男(しらなみごにんおとこ)」の首領、日本駄衛門。
延享(1744~48)の頃に実在した浪人あがりの盗賊・浜島庄兵衛がそのモデルです。
当時、大坂豊竹座の浄瑠璃「風俗太平記」に出てきます賊徒・日本左衛門の名を名乗っていました。
袋付・・・
たぼ(漢字変換できません、髪や髷と同じかみがしら・かみかんむりに「包」という字)は、後頭部の下の方に張り出した部分。
目立たない部分ですが、後頭部の髪をふくらませた「袋付」は町人に多い髪型でした。
そして、髪を油で平たく固めた油付(あぶらつき)は武士の形でした。
上:御家人(ごけにん:江戸後期・歌舞伎に登場)
下:文金風 宮古路風(ぶんきんふう みやこじふう:江戸中期)
御家人・・・
江戸時代の御家人は、将軍への謁見、つまり将軍へのお目見えができない下級武士でした。
江戸時代中期以降、富裕な町人、農民が多額の持参金をもって困窮した御家人の養子となったり、家格を買ったりすることが流行しました。
家格を売却した御家人は、「御家人くずれ」と呼ばれました。
文金風 宮古路風・・・
享保年間に大流行しました浄瑠璃、その太夫の宮古路豊後禄(みやこじ ぶんごのじょう)が結い始めた髪型です。
文字金とも言われた元文小判が発行され、流行し始めた髪型から「文金風」と言いました。
辰松風から少し変化して根が高く傾斜したもので、元結の巻き方が少なく刷毛先に竹串を入れ油で固め、鬢の髪をかき上げて割れ目をつくらないようにしました。
上:総髪(そうはつ:幕末の志士、学者、医者など・江戸後期)
下:たばね(江戸後期)
総髪・・・
月代を剃り上げずに髷を結う形です。
女性の場合は同じ漢字「総髪」でも、男性の時の「そうはつ」でなく「そうがみ」と読みます。
月代の手入れが不要なので、手間もかかりません。
江戸時代前期には医者や学者の髪型でしたが、江戸後期には一般的な髪型として普及しました。
坂本龍馬や徳川慶喜もこの髪型でした。
たばね・・・
ならず者、無頼漢、勇み肌は髷の先を散らし、上に向けました。
油をあまり付けず、水髪だけで結び、髷だけをふっくらと出し、刷毛先をぱらりと散らして上に向けたものです。
一日から二日前に結ったように見せる髪型ですが、これが粋とされました。
勇み肌の侠客などに好まれた髪型です。
上:大銀杏(おおいちょう:江戸後期)
下:総髪茶筅(そうはつちゃせん:江戸後期)
大銀杏・・・
現代では大相撲の関取が結う髪型として知られています。
総髪に髷を太く尻を下げる形の髪型です。
銀杏髷とは、いちょうの葉の形から名付けられたものです。
髪を太く束ね、髷の先が長く、尻も長いのが「銀杏髷」。
これは武家に好まれました。
それに対し町人は、同じ銀杏髷でも、小ぶりな「小銀杏」を好みました。
職業別に細分化されていた、とも言えます。
総髪茶筅・・・
幕末の志士にみられる総髪の中でも、髷の毛先を散らすのが茶筅の特徴となっていました。
月代がなく総髪の髷を散らすのが特徴です。
・・・「歴史」とともに、「まちかど展示館」構想につきましても、大野代表へのインタビューを交えまして、次回のご紹介とさせていただきます。
どうぞご期待ください。
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