その後の長崎屋
地下鉄・新日本橋駅4番入口(日本橋室町4丁目4番地)に上記の説明板があります。しかし幕末の長崎屋についての記述がありません。幕末から明治に変わるときに、長崎屋がどのように変遷してきたのか調べてみました。長崎出身の江原源右衛門が1592(文禄元)年に江戸入りを認められ、初代長崎屋源右衛門となります。幕府御用達の薬種問屋でしたが、1735(享保20)年、幕府から唐人参座として指定され唐人参(朝鮮人参)の専売を行います。オランダ商館長の定宿となったのは17世紀前半でしたが、1850(嘉永3)年4月10日~5月4日の間オランダ商館長「ヨセフ・ヘンリイ・レビッソン」がドイツ人医師「モーニッケ」と過ごしたのが最後になりました。第11代源右衛門は、日本橋地区の頻発する火災により幾度となく類焼していたため、転宅を願い出て、1859(安政6)年に鉄砲洲船松町2丁目(現在の明石町6番地先の明石海岸)に転居します。ここでは江戸長崎会所の看板を揚げ「蕃書売捌所」(長崎からの輸入蘭書の販売)と西洋銃の「入札払」を行います。
しかし1868(慶應3)年、明石町一帯が外国人居留地に決定したため、隅田川下流の南飯田町先の埋立地に転居を余儀なくさせられます(下図左下の波止場と書いてあるところが長崎屋の転居先と思われます。地図は明治9年を使用しました)。さらに新政府は1869(慶應4)年に江戸長崎会所にあった鉄砲や洋書などすべての品物を鉄砲洲御役所開市御用掛に引き渡すことを源右衛門に命じます。さらに居住地に、築地居留地の波止場(荷揚場)と運上所(税関)が建設されることになり、再び屋敷を追われることになります。
そして第11代源右衛門は、本所小梅町に移り、1885(明治8)年に亡くなります。長崎から江戸に出て、徳川家とともに繁盛した長崎屋は、徳川家の歴史とともにあり、その滅亡とともにその歴史を終えたといえるでしょう。このブログを書くために「それでも江戸は鎖国だったのか 片桐一男著」、「紅毛宿長崎屋と築地ホテル館 村岡実著」、「京橋図書館郷土室だより第34号 夕陽の中の長崎屋」等を参考にさせていただきました。