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大阪市中央区、日本橋

 大阪市中央区、日本橋についての投稿があったので、だいぶ前にも投稿したことがあると思いますが、とりあえず、最低限の事項だけ述べさせていただきます。

 大阪市中央区は、平成元年(1989)2月13日に、旧・東区と旧・南区の合区により発足した行政区です。

 元和4年(1618)に架け替えられた東京・日本橋は、長さ約67.8m、幅7.8mの木造橋であった(『中央区ものしり百科』)のに対して、大阪の日本橋はほぼ同時期の元和5年(1619)に江戸幕府によって道頓堀川に架けられました。長さ約40m、幅約7mの木造橋で、道頓堀川では唯一の公儀橋でした。 

 このように、東京・日本橋が大阪のものよりも大きさでかなり勝るのですが、東京・日本橋が創架された1603年時点ではもちろんのこと、1618年時点であっても、東京・日本橋近辺は未だ新開地の域を出なかったでしょうが、大阪の道頓堀、堺筋は既に完全に都市化されていたと思われます。

 池田弥三郎氏は、「大阪にも日本橋があり、京橋があるが・・・・大阪の場合、これをニッポンバシと言っていることは考えさせられることである。つまり、江戸で日本橋をニッポンバシと言わないで、ニホンバシと言ったのは、もともと(東京・日本橋の名の起原が)『日本』ではなく、『二本』だったということの傍証になると思う。」(『日本橋私記』;56頁)と述べられています。

 池田氏も述べるとおり、『慶長見聞集』では、1618年の架け替えられた橋の大きさを記しながら、それ以前の橋の大きさについての記載がありません(『日本橋私記』;92頁)。このことによっても、以前のものはかなり粗末なものであったのではないか、という推測が成り立ちます。

 公儀橋というのは、幕府が管理し、かけかえや修理などを幕府の費用で行う橋であり、外見的な区別として、公儀橋の場合は青銅製の擬宝珠がつけられていました。 江戸の場合、公儀橋は江戸城の内外にかけたもの40から50のほか、市中に約120、あわせて160から170もありました。しかしながら、天明7年(1787)の調べでは、当時の大阪の公儀橋数は12に過ぎませんでした。これは、"水の都大坂"の生成がいかに町人の力によるところが大きかったかを物語るものと言えるでしょう(岡本良一『大阪の歴史』;60頁)。

 このように、1619年(東京ニホン橋架け替えの1年後)という時点で幕府によって架けられた大阪では数少ない公儀橋が、当時から「ニッポンバシ」と称せられていたとするのならば、創架(1603年説が有力)前後からしばらくの間、東京のものは「二本橋」と称されていた可能性が高く、上記の池田弥三郎説はかなり説得的でしょう。

池田氏は自ら作詞した「雨の四季」という歌詞の中でも、「二本橋」という用語を用いて、「大阪はニッポンバシで、江戸がニホンバシなのは、日本橋は後の合理解で、古くは二本橋だったのではないか、という作者の学説(?)にもとづいて、わざとそうしてみた」と述べておられます