しばしばしばた

こんなところにも「澁澤」が!

近代日本経済の父と言われ、2024年度前半に1万円札の図柄に採用される予定の渋沢栄一さん。日本橋兜町にて1873(明治7)年に第一国立銀行を設立し、1888(明治21)年には自らの邸宅を構える(現・日証館)など、中央区との関わりも深く、第13回中央区観光検定のテーマは「中央区と渋沢栄一」を予定していました。

残念ながら、新型コロナウイルス感染拡大を受けて今年の中央区観光検定は中止となってしまいましたが…今日は、渋沢栄一と関係のある区内のちょっとしたスポットを紹介したいと思います。
それは、日本橋茅場町を歩いていると茅場町1丁目の交差点の角に見つけることができる「澁澤」の文字です。

茅場町の「澁澤」の正体は・・・

茅場町の「澁澤」の正体は・・・ こんなところにも「澁澤」が!

この正体は、交差点東側の角に位置するオフィスビル「澁澤シティプレイス」です。

現在は大手化学メーカー「花王」さんが入居していますが、なぜ「澁澤」なのかというと、この建物は、物流会社の「澁澤倉庫」さんが保有・運営しているのです。

 

澁澤倉庫のルーツは、渋沢栄一が営業主となって深川区福住町(現・江東区永代2丁目)の自邸内で創業した「澁澤倉庫部」にあります。

約500もの企業の創立や育成に携わったといわれる渋沢栄一ですが、「澁澤」の名を冠した企業は意外に少なく、現在は澁澤倉庫グループ各社のみとなっています。

澁澤倉庫と茅場町の地の関わり

澁澤倉庫と茅場町の地の関わり こんなところにも「澁澤」が!

澁澤倉庫と茅場町の地の関わりには、100年を超える深い歴史があります。

澁澤倉庫部は、1909(明治42年)7月に「南茅場町出張所」を開設しました。南茅場町出張所が設けられたのはもともと日本郵船会社の荷捌所があった場所で、日本橋川に面した土地を含んでいます。当時の東京の倉庫業は水運に支えられていたことがうかがえます。なお、日本橋川沿いには今も「渋沢ビル」というオフィスビルが建っています。(右の写真)

1923(大正12)年9月、関東大震災が発生した直後、澁澤倉庫株式会社は南茅場町出張所のある場所に本店を移転し、それ以来、2009(平成21)年8月まで、澁澤倉庫の本店は茅場町に置かれました。

茅場町の新本店はバラック造からの始まりでしたが、震災復興土地区画整理事業などで建物・土地の構成が少しずつ変遷していく中、1929(昭和4)年8月には河岸側に鉄筋コンクリート造5階建の倉庫が竣工、1937(昭和12)年には永代通り側に鉄筋コンクリート造3階建の本店事務所および茅場町表倉庫が竣工し、近代的な設備が整っていきました。

戦後、1946(昭和21)年3月になると、この本店事務所と茅場町表倉庫はGHQに接収されました。当時の地図を見ると「Central Purchasing Office」「Post Exchange Warehouse Branch」という部局が置かれていたようです。連合国軍も、倉庫や物流拠点として建物を使っていたのでしょうか。

1954(昭和29)年に接収が解除されたあと、事務所や倉庫の機能が戻ってきたと推測されますが、面白いのが、その後1972(昭和47)年4月にボウリング場の「メイツレーン日本橋」がオープンし、1988(昭和63)年9月まで営業されていたということです。茅場町でボウリングを楽しむことのできた時代があったのですね!

そんな数奇な運命を辿った本店事務所はその後建て替えられ、現在の「澁澤シティプレイス」になっています。1988(昭和63)年11月に茅場町1丁目交差点から見て左側のB棟、1991(平成3)年4月に右側のA棟が竣工し、現在に至ります。

蛎殻町にも「澁澤」が!

蛎殻町にも「澁澤」が! こんなところにも「澁澤」が!

もう1つ、澁澤シティプレイスの兄弟分のようなビルが区内にあります。有馬小学校・蛎殻町公園の隣にある、「澁澤シティプレイス蛎殻町」です。

この場所には、1924(大正13)年5月に澁澤倉庫の蛎殻町出張所が開設され、長らく倉庫として使われてきました。その後建て替えられ、2009(平成21)年9月に現在のオフィスビルが竣工しました。

このビルの隣には首都高速6号向島線が走っています。同線は箱崎川の跡地に建設されている…ということは、かつての澁澤倉庫の蛎殻町出張所も、箱崎川に面した立地であったことが分かります。茅場町と同様、水運を利用していたことが想像されます。

江戸の水運の名残という側面も

商工業の発展にあたって、倉庫業の重要性を認識していた渋沢栄一が、自邸内で創業した「澁澤倉庫部」。そのDNAを受け継ぐ「澁澤」の文字が、中央区内のオフィスビルに残っているということをご紹介しました。

茅場町も蛎殻町も、あくまで一般のオフィスビルですので、史跡ではなく、中を見学することはできません。渋沢栄一とのつながりを感じられるのは、ビル名の「澁澤」の文字くらいなのですが、
日本橋川や旧箱崎川との距離感を確かめながら周囲を歩いていると、近代化が進みつつ江戸の水運や「河岸」の機能が残っていた明治~昭和前期の様子が想像できるような気がしてきます!

※この記事は、澁澤倉庫株式会社のウェブサイトに掲載されている「沿革」および「澁澤倉庫の成り立ちと澁澤榮一」、ならびに公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センターが公開している「渋沢社史データベース」を参照しながら、筆者の解釈を加えて執筆しました。