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江戸時代の水道インフラ

日本橋~新橋間は「江戸前島」と言われた標高3m~4.5m程度の湿地でした。日本橋・京橋・銀座地域は徳川幕府が埋め立てをしたという風説がありますが、現在の標高と同じ高さが維持された地域で埋め立ては行われていません。徳川幕府は埋め立てではなく、元々湿地ではあるけれども強固な土地であることから日本の中心として開発しようと選定したのでしょう。慶長江戸図(慶長7年、1602年)によると、日比谷入江の海が見られますが、以前紹介した日本橋川~京橋川間の11本の「舟入堀」は掘られていません。第二次天下普請(1611年~)で舟入堀の候補地となり、主として伊豆地方で採石した江戸城向け石垣の受け入れ地となりました。

今回ブログでは、                                      ① なぜ江戸前島に舟入堀が掘られたのか                            ② 上水設備と江戸前島の地層の関係             を考察します。

 

江戸前島と江戸城

江戸前島と江戸城 江戸時代の水道インフラ

四谷から江戸城を通って八丁堀に至る切断線で地層の断面を見てみると添付の図のようになっています。四谷から江戸城にかけては標高20m程度の洪積層の台地、日比谷入江を過ぎると標高3m~4m程度の江戸前島が続きます。江戸前島は、隅田川 や荒川河口部の三角州(海岸低地)の埋め立てで出来た軟弱な地層と異なり、粘土・砂の東京層という強固な地層となっています。この東京層は15m以上の厚さがあり、石垣の巨石を運搬した石鋼船を受け入れるのに十分な強度を有していたと考えられます。日本橋川の水深は4.1m前後ですので、他の舟入堀も同程度の水深迄掘られたと予想されます。江戸城の石垣を造成するのに地理的に近いこと、固い地層が十分確保されていること、これらの理由から石鋼船で運搬しそれを受け入れる舟入堀の掘削候補地として江戸前島が選定されたのでしょう。

江戸前島に日本橋・銀座という商業地が開発された訳

江戸前島に日本橋・銀座という商業地が開発された訳 江戸時代の水道インフラ

日本橋・銀座を含む江戸前島が商業地として繁盛したのに多くの要素が考えられますが、その一つが”水道”の敷設です。徳川家康の命で大久保主水が造った最初の上水道「神田上水」は日本橋の魚市場を含む江戸前島にも供給されました。このインフラ構築を実現する上で江戸前島の地形が大いに関係しています。

「スーパー地形」というパッケージソフトを利用して江戸前島の尾根となっている「中央通り(銀座通り)」の断面(添付)を見てみましょう。銀座3丁目~銀座6丁目~銀座8丁目に分けて、図示しています。銀座4丁目と8丁目付近がほぼ頂点になっていることが判ります。

 

中央通りと外濠の間の勾配は約”3/1,000”

中央通りと外濠の間の勾配は約”3/1,000” 江戸時代の水道インフラ

徳川時代の初期に大久保主水が神田上水を引き日本橋魚河岸を含む江戸前島にも上水の施設を敷設しました。江戸前島の尾根に水道の本管を敷設し商業施設に配水したと想像されます。自然配水が可能であったのでしょうか?

銀座4丁交差点と外堀をつなぐ線で江戸前島の断面を見ると添付の図のようになっています。その勾配を計算すると以下のようになります。

① 外濠~銀座4の交差点あるいは外濠~銀座8の交差点間の距離は約360m               ② 外濠~銀座4あるいは銀座8の交差点間の標高差は90cm                     ③ 勾配=0.0028になります。

現代の風呂場など水の流れるところの勾配は一般に3/1,000にすると言われていますので、江戸時代にもこの勾配で水を自然放流していたのですね。素晴らしい。

【参考文献】

① 東京都地質調査業協会 技術ノート(昭和63.7)NO.3

② ソフトウェア「スーパー地形」(杉本智彦作)

③ 郷土室だより 中央区立京橋図書館