霊岸島の東京湾汽船
写真左は特派員ブログでもときどき紹介されている、亀島川河口の江戸湊の記念碑です。
正面には『慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和十一年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった。』とあります。
「諸国への航路」というのは東京湾汽船によるもので、側面にも『離島への汽船発着所として東京湾汽船は明治22年、この地に設立された云々・・』と刻まれています。「離島への発着所として設立」というのは事実と少し違うようですが、結果として伊豆諸島航路にも大きな影響を持った会社でした。
東京湾汽船(今の東海汽船のことです)の成立から現在に至る波乱万丈の歴史は、軽く1冊の本になるくらいのエピソードに満ちていてとても面白いです。
とてもすべては書ききれないので、ここでは、郷土天文館アーカイブに残された2枚の版画から、東京湾汽船が霊岸島で活躍した時代をほんのちょっとだけ追ってみます。
東京湾汽船のはじまり
左の版画は郷土天文館さんから許諾をいただいて掲載しているもので、資料解説は「明治の車蒸気船の図 東京湾汽船霊岸島発着場 斎藤むさし作」となっています。車蒸気船というのは外輪船のことかと思われます。版画の拡大写真はこちら
右の写真は公益財団法人日本海事広報協会さん経由で原本所有者の森田裕一様から許諾をいただき、雑誌「ラ・メール」に掲載された写真を転載させていただいた「第参福澤丸」の画像です。
船舶史稿によれば、東京湾汽船は大小合わせて延べ137隻の船舶を保有していましたが、そのうち外輪船というのは創業初期に保有していた2隻だけでした。その名は「第三(参)福澤丸(111トン)」と「初代飛龍丸(92トン)」。いずれも大正6年には売却していますので、左の版画はそのどちらかを描いたものと思われます。
面白いのはどちらの船も福澤造船所の同時期の建造であること。なので、どちらの船だったとしても外観は似たようなものではなかったかと推察されます。というわけで、参考までに第参福澤丸の写真を掲載してみました。
ちなみにこの造船所の代表者は「福澤辰蔵」という人で、東京湾汽船の創立メンバーの一人(1社)でした。その住所は越前掘2丁目3番地、東京湾汽船会社が明治22年に本社を置いた場所(旧:将監河岸)の近くの隅田川沿いの場所です。第参福澤丸の写真の奥の方に永代橋が写っていますが、ちょうどそのあたりから撮影されたもののようです(森田様ご指摘)。
外輪船というのはスクリュー船に比べてパワーが弱く、故障もしやすいという欠陥がありましたが、喫水が浅いので、昔の河川交通などでは重宝されていたようです。そういえば、ペリー提督が幕末に来航したときの黒船「サスケハナ」号も外輪船でしたね。
作者の斉藤むさし(無沙史)氏は主に昭和初期に活動していた版画家で、住まいは霊岸島にあったようです。
東京湾汽船、霊岸島を去る
左の版画の資料解説は「斎藤無沙史作。昭和十一年二月十四日東京湾汽船霊岸島発着所の火事」となっています。実はこの年の10月に東京湾汽船は霊岸島での50年近い歴史を閉じ、芝浦に移転しました。記念碑の「昭和十一年まで」というのはこのことを指しています。
-----
右は火事の翌日、2月15日の朝日新聞(東京)の記事です。食堂及び貨物倉庫3棟約300坪が焼けたものの、幸い死傷者は出ず、ダイヤにもほとんど影響が出なかったとのこと。お隣に水上署長の官舎があったため、水上署の署員が総出動で大活躍したともあります。
「東海汽船80年のあゆみ(1970刊)」によると、(勝鬨橋建設に伴う)東京市からの芝浦移転要請と、この火事が移転決断の決め手になったということが書かれています。(焼失規模は本館485坪、倉庫及び付属建物600坪とのことなので、新聞記事よりはだいぶ被害が大きいようです)
昭和11年というと、隅田川の最下流の橋が永代橋でした。霊岸島発着所を出た船は、どんなに高いマストを持っていても、橋にさえぎられることなく外洋に出て行けた時代だったのですね。。
おまけ
左の新聞記事は大正6年12月12日のものですが、このときも東京湾汽船は火災で倉庫を5棟も焼失しています。また、大正12年の関東大震災のときにも壊滅的被害を受けました(船舶は海上にいたので無事だったようです)。
火災以外にもさまざまな海難事故で沈没したり行方不明になった船舶も少なからずありました。芝浦移転・社名変更後に迎えた太平洋戦争では軍用に徴発された船舶の被害も数知れず。それらの困難にも負けず、現在まで生き残っているというのは、東京湾汽船/東海汽船って、本当にすごい会社ですね・・
-----
右の記事は霊岸島から芝浦に移転するときの記事です。サブタイトルに「明い東京名物」とあり、記事を読むと『この建物は例の自殺病患者もここに来ればたちまち全快するようにと明朗な気分を出して建てたもの・・』という、ちょっと気になる記述があります。例の自殺病??
実は「あゆみ」によれば、昭和8年2月、「女子高生の三原山火口投身自殺を契機として、三原山投身自殺流行の奇妙な現象が起こり、一種の大島ブームが現出した。この年9月までに男117人、女12人が三原山に投身した。」という、ちょっと信じられないようなことが起きていたのだそうです。
謝辞
短い拙文のブログ記事ですが、いろんなかたや施設にお世話になりました。
まずは郷土天文館さん。最初に問い合わせた際には画像掲載には申請が必要か?というお話もありましたが、特派員ブログへの掲載にあたっては、『資料名及び中央区立郷土天文館「タイムドーム明石」の所蔵』であることを明示すれば自由に使って良いとおっしゃっていただけました。
海事センター(海事図書館)さんにもお世話になりました。国会図書館ではコピーしかできなかった「海と船の雑誌ラ・メール(現在廃刊)」や、「東海汽船80年のあゆみ」、貴重な船舶史稿をお借りすることができました。
そして何よりもラ・メールの発行元、日本海事広報協会さん(所在地は湊2丁目、中央区です)。写真の掲載にあたって原本所有者に迅速に可否を問い合わせて許諾をいただけたばかりか、原本所有者の森田様自身をご紹介いただけました(月島にある海運会社の所長さんです)。
その上、「たまたま在庫があったから」と、くだんの写真掲載のあったバックナンバーまで譲ってくださいました!心よりお礼申し上げます。
日本海事広報協会さんのHPはこちらです。