連載小説「Kimagure湊だより」第6話大好きな中央区の地図は心のなかに
第6話 大好きな中央区の地図は心のなかに
たぶん私は、世で言うところの、方向音痴だ。
「どっち先に行く?それによって、行き方が変わるからね」
と、私が言うと、黄色い小鳥ちゃんは不思議そうにした。
「どんなふうに?」
と言うので、私は丁寧に説明する。
「海運橋の親柱を見にいくんだったら、湊からだと亀島川沿いに行こうね。八丁堀を抜けて新亀島橋のところで左に曲がって茅場町の商店街に入ってね、それから裏路地を行くと、海運橋の親柱があるよ」
「鎧橋は?」
「鎧橋に行くんだったら、湊からはまず新富のほうに行って、平成通り沿いにまっすぐ行くといいよ」
地図を見ないでも場所を覚えている、ということに、私は少々得意気になりながら、それでもそれを悟られないように、ひかえめに微笑んでみせた。
ところが、黄色い小鳥ちゃんは笑いだした。
「あなたっておもしろい!」
なんのことだろう、と思っていると、小鳥ちゃんは言ったのだ。
「海運橋も鎧橋も、おなじ兜町じゃない?目と鼻の先よ。どうしてそんなに行き方が違うの?」
私はあわてて地図を広げる。ほんとうだ。どちらに行くのでも、どちらの行き方でも行けてしまう。
「どうして!」
と、私は地図に問いかける。そして、その事実に愕然とする。
私は、いったいどうやって場所を覚えているのだろう。私のなかの地図には、いたるところに”時空の割れ目”ができているに違いない。ようするに、となりあった町どうしでも、私のなかではぜんぜん別の場所なのだ。行き方も異なれば、意味合いも違う。私のなかの、そのまち。
そもそも、どこへ行こう、と決めても、好きな道を選ぶあまりに、けっきょく道に迷ってしまう。行くたびに迷って、また同じところに出てしまう、ということが少なくない。それがわかっているのに、何度でも私は、気に入った道ばかり歩いてしまって、とうとう目的地をみつけられずに帰ってくる、ということを繰り返している。
そんな私が、海運橋の親柱や鎧橋の場所を、なぜこんなにもはっきり覚えているかというと、それは運よくみつけられたからであり、私は勝手に、”相性がいい”のだと思っている。
ちょっと話はそれるけれど、中央区観光検定は不思議だ。じぶんの好きなまちのこととか、とくべつ好きな記念碑や史跡のことが問題に出たとき、それを間違いなく答えられれば、たとえほかの問題をうっかり間違えてしまったとしても、満足なのだ。反対に、もしその問題を落としてしまったら、けっこういい点数がとれたとしても、それは悲しみ以外のなにものでもない。
それを、何の気なしに黄色い小鳥ちゃんに話したら、
「それはあるわ」
と、みょうに納得した顔で言った。どうやら、黄色い小鳥ちゃんにも、思いあたるふしがあるようだ。
「中央区観光検定の問題に答えることは、まちへの愛を証明することでもあるもの」
と、黄色い小鳥ちゃんは言った。しかも、
「中央区のなかには、好きなまちや場所がありすぎて、けっきょく全部の問題に愛着がわいてしまうんじゃないかしら」
「たしかに」
と、私はうなずく。そういうわけで、けっきょく、中央区観光検定は、ぜんぶの問題に愛情をもって答えたいのだった。
それで、どちらの道順でも行けるということはわかったものの、
「どっち先に行くの?」
と、小鳥ちゃんがきくので、
「じゃあ、海運橋の親柱」
と、私は答えて、ちゃんと最初の予定どおり、亀島川沿いの道順で行くことにした。小鳥ちゃんが、ぜひそうしましょう、と言ってくれたのだ。
亀島川はちいさい川で、隅田川のような雄大さはないものの、昭和初期までは倉庫が岸に立ち並び、荷物を運ぶ船がいっぱい浮かんでいるような、まさに湊まちの風情の漂う川だった。今は大小さまざまなオフィスビルが川に背を向けて立っていて、歩道からは川の姿が見えないのが残念だけれど、橋のうえに立って川のきらめきをみつめるとき、かつての湊まちの面影が、今もどこかに隠れているような心地になるときがある。
八丁堀三丁目の、亀島川沿いに御鎮座する日比谷稲荷神社の名は、ここはもともと海だったことを物語っている。徳川家康が日比谷入江を埋め立てたとき、海を臨んでいたお稲荷さまは、地形の変化とともにこの地に移ったのだそうだ。ほかにも、このまちに大名屋敷があった頃、屋敷神として御鎮座していた純子稲荷神社や、また震災と戦災の供養塔など、いまも地元の方たちにより代々守られている。
それが、あんなに遠くに感じていた鎧橋さえ、亀島川沿いに行けばよかったなんて…。
「けっきょく、方向音痴ってことね」
と、小鳥ちゃんは厳しく言った。
「しょうがないじゃない? だって私、地図が苦手なんだもの」
と、私は頭をかき、それから、
「こういうのを、”心のなかの地図”っていうんだよ」
と、負け惜しみのように言ってみる。
「それにしても…」
私は、黄色い小鳥ちゃんを、思わずみつめかえす。
「すごくふくらんでるね」
黄色い小鳥ちゃんは、ふわふわの毛をさらにふくらませて、ふだんの2倍の大きさになっていた。私が言うと、
「小鳥は寒いと、ふくらむものなのよ!ほうっておいてちょうだい!」
と、そっぽを向いた。
「ごめんごめん…」
と言いながら、私はにこにこする。
中央区を南北につらぬく首都高速都心環状線は、かつての楓川で、川底を車が走っているというおもしろい道路だ。昭和39年の東京オリンピックに向けて、まちが大急ぎで衣装替えをした名残りと言えそうだ。
その楓川に架かっていた海運橋は、かつての本材木町と坂本町を結んでいた。いまの日本橋一丁目と、日本橋兜町になる。兜町といば、日本を代表する金融の街。明治6年に、わが国初である第一国立銀行が、海運橋のたもとに創業した。五層楼閣のモダンな建物で、その後明治8年に西洋風の石造りアーチ橋に架けかえられた海運橋とともに、東京の名所として人々の注目を集めたそうだ。
明治11年には東京株式取引所も創設され、いまの日証館ビルのある場所には、渋沢栄一の邸宅もあった。東京駅や日本銀行で名高い辰野金吾の設計だ。
話は戻るけど、第一国立銀行は、いまのみずほ銀行で、兜町支店の壁には、「第一国立銀行発祥の地」の銘板がある。ほそい路地の向こうにも、思わず見とれてしまうような個性的な古い建築が連なり、フィリップ証券や山二証券などは、銀行建築で有名な西村好時の設計だ。
海運橋の架かっていた場所に、今も親柱が2基残っている。
ポケットパークのようなちいさな空間に、きれいに手入れされた植栽、それを囲う竹の格子、ちいさなベンチ。金融機関や証券会社が軒を連ねる一角の、くつろぎのスポットだ。こういうのを、「橋詰広場」という。橋の四隅に設けられた空間で、たいがいは草花が植えられていたり、公園になっていたり、防災用具の倉庫や公衆便所があったりする。
「わ~、これが海運橋の親柱かぁ!」
私は、感動してそれをみつめる。『歩いてわかる中央区ものしり百科』の何ページ目かを思いうかべる。じっさいに訪ねてみると、愛着がもっと湧いてくる。風の匂いやまちの雰囲気、歩いている人たちの会話などが、新しいストーリーをそこに吹き込む。
石造りの親柱には、「かいうんはし」という文字が彫られている。橋の東詰には、御船手頭向井将監のお屋敷があった。ここで、船の検閲を行い海の安全を守っていたのだ。だから、「海賊橋」とか「将監橋」とか呼ばれていた頃もあり、それでも明治に入ってからは、もっと縁起の良い名前にしたいということで、「海運橋」になったらしい。
「あれぇ?向井将監っていったら、いまの新川2丁目の、亀島川が隅田川にそそぐあたりにお屋敷があったんだよね。ちょうど、霊岸島検潮所のあたり。なあに?ここにもあったの?」
と、私の頭はこんがらがる。
小鳥ちゃんは、ふふふっと笑い声をもらすと、高らかに宣言した。
「江戸時代初期は、ここが海岸線だったのよ!」
「そうかぁ!」
と、私は両手をたたく。
「ここからは大海原が見渡せられたんだ。埋立てが進むのとどうじに、向井将監の船見番所も移動したんだ。いつのときも、海を臨む場所にあるように」
そう考えると、中央区内のとてつもなく広い範囲を、埋め立てたことがわかる。
「今の日本橋や京橋、銀座でいえば三十間堀跡より東側は、ぜんぶ埋立地なのよ。もちろん新川や鉄砲洲などの隅田川沿いの一帯もね」
「たいへんだったね。江戸時代の技術って、すごいね!」
もうひとつの親柱は、高架下をくぐった反対側にあって、植え込みのなかの、目立たない場所に立っていた。「紀元二千五百三十五年六月造」と彫られている。
そんな楓川も、昭和37年に川の水が抜かれ、高速道路に姿を変えた。
「江戸・もみじ通り」と名づけられた通りをゆく。日本橋川が近くなると、またちいさなポケットパークのような空間をみつけた。花が植えられていて、ちいさなベンチが置いてある。
「あれぇ~?あやしいなぁ!」
と、私は腕を組む。
「これ、橋詰広場っぽくない?」
「よく気づいたわね」
と、黄色い小鳥ちゃん。
「じつは、ここにも橋が架かっていたのよ。兜橋っていったわ。明治18年にはじめて架けられたの」
「やっぱり!」
私は、うれしい気持ちになる。
兜神社は、商業の神様として近隣の金融関係者やビジネスパーソンたちから厚い信仰を集めている。境内にある兜岩は、大きな岩で、鎧の渡しの伝説と関係があるのだとか。
「そういえば、鎧橋も明治5年に架けられたのが初めてで、それまでは渡し舟だったんだよね」
「平安時代、源義家が奥州攻めに向かう途中に、ここで暴風雨に遭ったんですけど、鎧一領を海中に投げ入れて龍神に祈ったところ、無事に渡れたんですって」
と、小鳥ちゃんは説明してくれた。
ふむ。いま目の前に流れている日本橋川は、どう見ても幅が100メートルあるかないかだ。こんなところで暴風雨に遭ったからといって、貴重な鎧をまるごと投げ入れてしまうなんてどういうことだろう…と、私は思った。そこで、
「こんな小さい川で?」
と、不思議そうにすると、
「だから、ここは海だったのよ!」
と、小鳥ちゃんはおかしそうに笑った。
「そうかぁ、海だったのかぁ!」
と、私はふたたび納得する。さっきの海運橋にしても、船見番所が海岸線の移動と一緒に今の隅田川沿いまでやってきたのと同じように、この辺りは埋立てによってできた土地なのだ。
「おもしろいのは、『江戸名所図会』のなかに、源義家の伝説が書かれていることね。令和の時代を生きる私たちが、遠い昔の出来事としてその伝説を知るのとおなじように、当時の江戸の人々も、遠い時代の出来事として、その伝説を読んでいたのよ」
と、黄色い小鳥ちゃん。
「源義家から見たら、江戸時代も令和も変わらないね。ずっとあとの時代の人たちが、じぶんの伝説を読んでる~っていう感じだよね」
と、私は思った。何が言いたかったかというと、
「なにも現代を生きる私たちだけが主役なわけじゃなくて、私たちもいつか、歴史になっていくっていうこと…だよね?」
「えぇ。私たちはいつもここに居ながら、現在でもあり過去でもあるんだわ。そして、未来にもなりうる」
私たちは、不思議な気持ちで、かつての鎧の渡し跡を眺める。
茅場町の歩道に、おもしろい絵をみつけた。舗装された歩道のなかに、絵のついたブロックがある。おもわず立ちどまり、足元をのぞきこんだ。
「わ~絵がある!おもしろい!なんの絵だろう!」
ちょうど、日本橋日枝神社の門前だ。なにやら、花の絵のようだ。
「椿かしら」
と、黄色い小鳥ちゃん。
すこし行った先にも絵があって、そちらは桜だった。
「そういえば、この辺りにはその昔、植木長屋と呼ばれる通りがあったそうよ。なんでも、植木屋さんや庭木売りが集住していたそうよ。それというのも、縁日には植木の市が立ったからなの」
「縁日って、日本橋日枝神社の?」
「えぇ、その頃は、茅場町薬師なんて呼ばれていたわ。寛永年間に、山王御旅所として建てられたのよ。赤坂山王日枝大社の神幸祭のときに、お神輿が休憩する場所ね。江戸時代には、向こう側にある智泉院の薬師如来さんも境内のなかにいて、閻魔同や地蔵堂もあって、毎月8日と12日の縁日には、たいへんな人出があって賑わったそうよ。境内は今よりずっと広かったそう」
「そうかぁ、それで植木の絵なのかもしれないね」
と、私は感心する。
「谷崎潤一郎は、『幼少時代』という随筆のなかで、茅場町薬師のことを綴っているわ。子供たちもまちの人もみんな、縁日を心まちにして、一日をかけて楽しんだそうよ」
「神社にお参りしたり、縁日にでかけることが、楽しみの中心だったんだね。そこに暮らす人たちは、共通の楽しみを持っていたことになるね。お参りして、植木を見て回って、ちょっとお茶をのんで帰ってくる、いいね、シンプルだし、それでじゅうぶん満足できたし、じぶんの住んでるまちのなかに、ちゃんと楽しみがあったんだね。大事だよね、そういうの」
歩道に、ほかにもいくつか絵をみつけた。
東京証券取引所のまんまえの歩道には、昭和6年に竣工した円筒形の本館が印象的な、その絵。渋沢栄一邸と思われる洋風建築の絵や、「江都勝景よろゐの渡」の絵もみつけた。
「こんなふうに、まちの歴史や特徴を表す絵がある歩道って、すてきだね。みつけると楽しくなるし、愛着がわいてくるね!」
バス停前には、市電の絵。停留所についた市電に、たくさんのお客さんが乗り降りしている場面で、車体には「19」番と書かれている。
「茅場町の交差点は、当時、市電交通の要所だったんですって」
「そういえば、鎧橋にも市電が走っていたんだよね」
「えぇ、明治21年に鉄橋に架けかえられてからよ」
と、黄色い小鳥ちゃん。
「まだ永代橋も新大橋も木橋だった頃、いちはやく鎧橋は鉄橋になったのね」
鎧橋のたもと、茅場町側には、お地蔵さまがいる。笠をかぶって、両手を合わせてこぢんまりした姿は、かわいらしい。私と黄色い小鳥ちゃんは、そっと手をあわせた。近所の方が着せてあげたのだろうか、お地蔵さまはマフラーをしていた。
この日はとても寒くて、なにかあたたかいものを飲みたいと小鳥ちゃんも言ったので、どこかいいお店はないかと探すことにした。
イマドキふうの、お洒落なお店もだいぶ増えてきたけれど、私も小鳥ちゃんも、どうもそちらには足が向かない。庇が古びて黒ずんだお店とか、ショーウインドウのなかのコーヒーカップに、コーヒー豆がびっしり入って飾られているタイプのお店とか、普通のホットコーヒーのことを、レギュラーと呼ぶようなお店にばかり、興味を持ってしまう。
そこで、路地のあいだにひっそりと灯りをともす、年季の入った喫茶店に入ってみた。
なかでは一人、ビジネスパーソンっぽい白髪の男性が、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。お店の人は、私と黄色い小鳥ちゃんを見ると、一瞬考え込んだが、どうぞ、と窓際の席を案内してくれた。
「このお店、私たち入って大丈夫だったかなぁ?どう見ても、私たち、金融関係じゃないよね?」
私は、小鳥ちゃんに耳打ちする。
すると小鳥ちゃんは、
「あら、わたしは金融関係よ」
と、すまして言った。私はびっくりして、
「いつから?」
ときくと、
「今日から」
と答えた。
私は、黄色い小鳥ちゃんをじっとみつめる。黄色いふわふわの羽毛に身をつつみ、赤いネッカチーフを巻いた、ちいさなちいさな小鳥ちゃん。…ん~と、私は悩んでしまった。
ほかにお客さんはいないのに、どこかから煙草の匂いがする。どうも、長年のあいだに壁に染みついた匂いらしい。これと同じぶんだけ、この街を駆け巡った金融マンたちの汗と涙が染みついているのだと思うと、かしこまった気持ちになってしまう。
レギュラー…もっともホットコーヒーのことだ、それから小鳥ちゃん用に、ホットミルクを注文する。見ると、レジのうえの棚に、見覚えのある犬張り子がいた。
「あれ、見たことある」
と、私は言う。
「茅場町薬師さんとこにも、おなじ犬がいたわね」
と、黄色い小鳥ちゃん。
そういえば、さっき日本橋日枝神社をお参りしたとき、拝殿のなかにこれと同じもっと大きな犬がいた。
「やっぱりこの界隈は、日枝神社なんだね」
店内は静かで、BGMもなく、ほんとうにコーヒーだけを味わう、という感じがよかった。私と黄色い小鳥ちゃんは、やっぱりこういうお店が好きみたいだ。
それから、旧江戸橋倉庫ビルの一階にあるまちかど展示館を見て帰ることにした。
江戸橋のたもとには、江戸時代より蔵がたち並び、明治時代は七つ蔵と呼ばれる三菱の倉庫が名所だった。その後、江戸橋倉庫、日本橋ダイヤビルディングと姿を変え、日本橋川に浮かぶ船のブリッジのような、印象的なデザインがまちに表情を与えている。
江戸橋のうえに、太陽がうかんでいる。でも、それは小麦粉の太陽だ。
まちかど展示館の窓から外を見ると、たった今江戸橋を渡ってきた人々が、足早に通り過ぎてゆくのが見える。冬の白ばんだ空に、葉を落とした木々が並ぶ。窓に反射した、昭和初期の丸い室内灯が、ぼんやりそこに浮かび上がっている。
「冬だね…」
「冬ね…」
と、私たちは言い合う。
おもての喧騒は、まちかど展示館のなかまでは届かず、まるで無音の映像を見ているようだ。それとも、タッチパネルのスクリーンに映された、江戸・明治・大正・昭和・平成の江戸橋界隈の浮世絵や写真のつづきなのだろうか。令和の江戸橋、というタイトルの…。
京橋二丁目まで戻ってきて、昭和通りに架かる歩道橋を渡る。
やれやれ、と思いながら、昭和通りを流れる車の波を見下ろす。
「昭和通りってすごいね!広いね~!」
と、黄色い小鳥ちゃんと感心しながら言い合う。
「それにしても歩いたね」
「ふつうは、地下鉄を使うものよ。それに、中央区には江戸バスという心強い味方もいるのよ。今じゃメトロリンク日本橋だってあるわ」
と、小鳥ちゃんは少々お説教じみて言う。
それでも、私も黄色い小鳥ちゃんも、歩くのが好きなので、心のおくのほうでは満足している。
高層ビルにふちどられた空をみあげて、深呼吸をする。なにしろ日本橋地区まで歩いて行って、帰ってきたのだ。遠い道のりだった…。私たちは、この頃にはすっかり疲れきってしまって、はやく家に帰ってなにか甘いものを食べようね、と話しているところだった。
そのときである。
あるものが目にとまり、私は一瞬じぶんの目をうたがった。そこに見えていたものは…、
小麦粉の太陽!!
「小鳥ちゃん…」
私は、すがるような思いで声をかけた。小鳥ちゃんは、なにかしら?と振り向いて、私の視線の先をたどり、
「あら…」
と言った。
あのマークは、さっき日本橋ダイヤビルディングのすぐそばにあった建物。よくよく目を凝らすと、船のブリッジのようなものが、その傍らに見えているではないか。長い道のりを歩いて、歩いて、歩いて、ようやく京橋まで帰ってきたと思ったのに…。
「まっすぐつながっていたのね」
「私たち、この道をまっすぐ戻れば、それでよかったんだ…」
それなのに私たちは、細い路地に入り渋い庇に惹きつけられ、大きなビルに圧倒され人混みに目を回しながら、迷子になったり遠回りしたり、てんてこまいになりながら…。ほんの10分もあれば歩けた距離を、たっぷり1時間かけてたどりついたのだった。
「昭和通り、おそるべし」
と、私は言ったけれど、
「いいえ、本当におそれるべきは、あなたの”心のなかの地図”よ」
と、黄色い小鳥ちゃんはきっぱりと言った。
「ホットケーキ作ろう!!」
と、私は気をとりなおして両手をあげる。あの、太陽のマークの小麦粉で。
「賛成!」
と、黄色い小鳥ちゃんも、羽をパタパタとさせる。
私たちはまた、もと来た道を探そうとして、あっちへ行ったりこっちへ来たり、途中で気になる記念碑や案内板をみつけては立ち止まり、その後さらに遠い道のりを歩いたことは、言うまでもない。
新富橋を渡ったころには、いつのまにか日が傾きはじめていた。
「そうだ、暗くなってきたから、ちょうど聖ルカ礼拝堂がライトアップされて、きれいだろうね!」
「回ってみましょうか!」
と、私たちは交わし、築地のほうに道を折れ、さらに道のりを遠くする。帰り道は、でかける前に私が宣言していた、ふたつの道順のどちらでもなかった。
私の心のなかの地図には、またもうひとつ、新しい道順ができる。こんなふうに、歩くたびに好きな道が増えてゆく、それが中央区なんだなぁと思うと、私はうれしい気持ちでいっぱいになった。
つづく
♪参考文献「歩いてわかる中央区ものしり百科」中央区観光協会/「中央区の昔を語る(十三)茅場町・小伝馬町」中央区教育委員会 平成11年/「中央区の橋・橋詰広場 中央区近代橋梁調査」中央区教育委員会 平成10年/「中央区区内散歩 史跡と歴史を訪ねて(一)」 中央区企画部広報課 昭和63年/「文学さんぽ 谷崎潤一郎『幼少時代』を歩く」中央区立郷土天文館 平成27年/中央区近代建築物調査ホームページ/
♪作中の歩道の絵は、残念ながら今はもうありませんが、以前取材した記事「中央区の歩道っておもしろい!13【兜町・茅場町編】著・湊っ子ちゃん」(平成30年8月22日公開)にて写真つきでご紹介しています。
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/archive/2018/08/post-5490.html
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第155号 令和4年1月28日