日本で初めて「茅場町1丁目」でビールの醸造をした『川本幸民』の紹介
北康利著「蘭学者『川本幸民』(かわもとこうみん)によれば、川本幸民は近代の扉を開いた万能科学者として有名である。新居を建てると火事が追いかけてくると冗談を言うほど多くの火事に遭遇した川本幸民は、弘化3年(1846年)に八丁堀代官屋敷に引っ越した。川本家の転居は仮住まいも含めると十数回に及んだといわれています。後程自宅のあった場所を説明しますが、この住いが茅場町1丁目でした。
嘉永6年(1853年)黒船来航の翌年に『遠西奇器述(えんせいききじゅつ)』を出版しました。遠西とは「西洋」の意で、我が国の科学史上燦然と輝く金字塔となる書籍です。薩摩藩はわが国初の軍艦「昇平丸」を建造しますが、これは「遠西奇器述」の中の西洋流造船術の記述をもとに製造したものです。この本はベストセラーとなりました。
幸民はいろいろの物を自ら製作しましたが、有名なもののひとつが「ビール」です。
川本幸民によるビールの試醸
日本人はオランダを通じてビールの存在は知っていたようで、杉田玄白と建部清庵は『和蘭医事問答』の中で、
「麦酒たべ見申し候ところ、ことのほか悪しきものにて、何のあじわいもなく御座候。名はビイルと申し候」と紹介しています。オランダから長旅を経て渡来したビールは風味は損なわれており、また冷えていない訳だから現在の爽快感はなかったと想像されます。
嘉永六年(1853年)幸民は通訳としてペリー提督が乗船するサスケハナ号に乗り込み、会議の後の宴会でビールと出会ったと言われています。ドイツの農芸学者シュテックハルトが執筆した「科学の学校」のオランダ語版を読んだ幸民(蘭語には通じていましたが、独語はできなかったようです)は、ビール醸造法に関わる説明に感激し試醸を決断しました。幸民はビール醸造法を含めたこの本の全体の内容が気に入ったようで、翻訳を行い書籍にしました。これが彼の代表作『化学新書』となりました。因みにビール醸造法は第13巻に収蔵されています。
幸民によるビール醸造理論
使用する酵母によってビール醸造法には、「上面発酵」と「下面発酵」の2種類があります。幸民は当時「上泡醸法」「下泡醸法」という訳語で区分しており、それらの違いを理解していました。「下泡醸法」は「上泡醸法」に比べて低温による醸造法であり仕込みに時間がかかる一方で、長期貯蔵に堪えるビール(いわゆるラガービール)を作るのに適しています。無類の酒好きであった幸民は、詳細にビールの製法を把握した時点で試醸を思い立ったのは自然の流れでしょう。
幸民は自宅の庭に炉を築き、ビールを試醸しました。浅草松葉町(現在の台東区松が谷)の曹源寺(かっぱ寺として有名)で試飲会を開いたということが書かれていますが、太平洋戦争の激しい空襲で記録は焼失し資料は現存していません。それでも『ビールの祖』として川本幸民の名は語り継がれています。このビール試醸が行われた自宅は南茅場町で、現在の茅場町1丁目交差点付近。
茅場町醸造の『幸民ビール』の復活期待!
10年ほど前に「川本幸民」と同じ町内にあり現在も茅場町1丁目に白雪江戸店がある「小西酒造」(清酒白雪で有名)が、幸民ビールを再現し一部の人々が試飲したと言われています。幕末の「幸民ビール」を飲むことは出来ないでしょうが、中央区観光協会で音頭を取って「復刻 幸民ビール」プロジェクトを立ち上げ私に試飲の機会を提供して頂きたいものです。
***参考文献***
1) 蘭学者「川本幸民」 北康利著 PHP研究所 2) 絵本江戸土産 西村重長・鈴木晴信 画 3) 江戸城下変遷絵図集 7 (御府内沿革図書) 原書房 4) 本八丁堀辺之絵図 麹町10 近吾堂 5) 中央区年表 明治文化編 6) 中央区沿革図集 京橋図書館刊
【京橋図書館地域資料室へ感謝】
今回のブログ執筆に当たっても京橋図書館の地域資料室(地下2F)の方々に非常にお世話になりました。単なる資料の使用の他、職員の方々の調査は、新しい図書館でも継続することを祈っています。
長きに亘ってお世話になり有難うございました。感謝しております。