桝形(ますがた)って、こんな感じ! 芝口御門跡。
日本橋が五街道の起点として定められたのは、慶長9年(1604年)のことです。
江戸と上方を結ぶ東海道は、各宿場を描いた浮世絵が大評判になるほど、特に重要な交通路でした。
東海道は、現在の中央通りに当たります。
日本橋川に架かる日本橋、京橋川に架かる京橋、汐留川に架かる新橋。
江戸城見附橋のほかに、江戸市中の橋で欄干に擬宝珠(ぎぼし)を飾ることが許されたのは、この3橋です。
その新橋に、石垣が組まれ、見附門としての芝口御門が造られた時期があるのです。
実は、4月30日に「桝形」に関連してブログをあげた後、よくイメージできる絵はないものだろうかと思っていたのです。
銀座8丁目10番地に、教育委員会の「芝口御門跡」の説明板と並んで、往事の御門の姿を石にはめ込んだ碑がありました。
高輪大木戸を江戸の街に入り、日本橋に向かいます。
汐留川には、新橋から名を変えた芝口橋が架けられています。
北詰は石垣で囲まれており、冠木門(かぶきもん)から桝形に入ります。
広場を直角に右に曲がると、渡櫓門(わたりやぐらもん)が威圧するように立ちはだかります。
侵入した敵を櫓から監視し、頭上から射撃を行うのです。
相当堅固な造りをしています。
その先の三十間堀との角には、隅櫓(すみやぐら)も設けられていました。
街道の上なのに、この厳重さ。
現在、汐留川は御門通りや東京高速道路KK線の高架になっています。
三十間堀は埋め立てられて三原通りに変わっています。
芝口御門は、銀座8丁目の8番地から10番地までの地域ですから、中央通りを挟んで金春通りから三原通りに渡る規模だったようです。
芝口御門が造られたのは、宝永7年(1710年)。
正徳の治と呼ばれる一時代を担った新井白石の建策により、朝鮮通信使の来朝に備え、国の威光を示すために建設されたといいます。
しかし、15年度の享保9年(1724年)出火により焼失し、再建はされませんでした。
それに伴い、芝口橋と変えていた橋名を、もとの新橋に戻りました。
芝口御門の絵をよく見てください。
幕府管理の重要な橋です。
ほら、親柱に擬宝珠が描かれていますよ。