連載小説「kimagure湊だより」第7話明石町の歩道をあるけば
第7話 明石町の歩道をあるけば
「桜ももうすぐだねぇ~」
黄色い小鳥ちゃんと私は、明石町河岸公園を歩いている。隅田川は朝の陽ざしにキラキラと輝き、堤防沿いに並ぶ桜の木々も、蕾をふくらませはじめる。木もれびの降る坂道を下って、かつて鉄砲洲川の流れていた緑道にでる。
ふいに、私はたちどまった。
歩道は、枯葉色したブロックで舗装されている。そのなかの、ブロック数個分、その一角だけが、白っぽいつるんとした素材でできていた。たぶん、なにかの絵柄がはめこまれていたのだと思う。歩道の絵は、その町の歴史や特徴をあらわしたものが多く、新しい発見があったり、その町へ興味を持つきっかけを作ってくれたりする。
ところが、今足もとにある絵はすっかり色褪せ、ところどころにまだすこし模様が残ってはいるもの、どんな絵なのかはわからなかった。
「わぁ、こんなところに絵があったんだね!」
私は夢中になって、目をこらす。
聖ルカ通りのつきあたり。聖路加国際病院と聖路加ガーデンが向かいあい、反対側にはシーボルトの胸像のあることで知られるあかつき公園がある。そして私たちの立っている側には、茶色いタイル張りのモダンな建物がたっている。
こんなとき、いつも思う。
「もっとはやく、このまちと出会いたかった…」
そうすれば、この絵がはっきりと輪郭と色彩を保っているうちに、私はこの道を歩けたはずだからだ。
「口をひらけばいつもそれね」
と、黄色い小鳥ちゃんは笑う。
「こないだは、築地運上所があったときに、じっさいに見てみたかったとか、入船にあったチャリ舎のシャンペンサイダーが飲みたかったとか、軽子橋際にあった櫻井洋菓子店のシベリアケーキが食べたかったとか、あげくの果てにはA6番女学校に通いたかったとか、そういうのばっかり!」
「だって、それはほんとうだよ。A6番女学校は明治3年に、ジュリア・カロゾルス先生の開いた、築地外国人居留地にできた一番最初のミッションスクールだったんだよ。はじめてできた洋館で、それはそれはみんなの注目をあつめたっていうじゃない。いいなぁ、隅田川をのぞむ美しい眺め、異国情緒ただよう鐘の音、讃美歌の調べ…」
私はうっとりする。
そこへ黄色い小鳥ちゃんが、ぴしゃりと言う。
「もしあなたがその時代に生まれていたとしても、通えるとはかぎらないのよ。どうせあなたは、大晦日の勘定あつめに走り回っているクチじゃない?」
そして、ケラケラと笑う。
「なにそれ」
「江戸市中の大晦日といったら、商人たちは、お得意さまからの未納の代金を集めるのに、目を回して奔走していたそうよ。それに引きかえ、築地外国人居留地を眺めれば、教会からは穏やかなピアノの音色がながれ、青い目のご婦人がたや子供たちが、お洒落をしてまばゆいばかりの笑顔をうかべ、新年を祝っていたとか…」
「いいなぁ…私、そっちのほう!」
「だめよ、わたしがこっちなの。あなたは走り回りなさい」
「やだよ、ピアノに合わせて歌うんだもん」
「英語の歌よ、あなた歌えないでしょ?」
「いいじゃない、それなら一緒に教会にいこうよ」
「だめよ、ああいう神聖で厳かな場所には、小鳥しか入れないの」
と、私たちはしばらくくりかえした。ほとんど、おままごとみたいな会話だ。
それでも私たちは、なんだか楽しそうに笑っていた。
いまの明石町一帯は、明治元年より「築地外国人居留地」が置かれた場所だ。
「なんといっても、明石町のランドマークと言ったら、聖路加国際病院の聖ルカ礼拝堂の十字架だね。いつの時代も、町の人々の希望であり目印だね」
「えぇ。あの十字架に、守られているような心地になるときがあるわ」
「その聖路加国際病院の前身は、ヘンリー・フォールズのはじめた健康社なんだよね」
「小さな木造小屋だったそうよ。町の人たちは、親しみを込めて築地病院って呼んでいたみたい。貧しい人には、無償で診ることもあったそうよ。教えを乞う医学生たちが、毎朝邸宅の前で行列を作っていたとか。そうそう、ヘンリー・フォールズが横浜に着いたのも、3月だったそうね」
「明治7年だったね。桜、咲いていたのかなぁ…」
「横浜にすこし滞在したあと、開通したばかりの鉄道に乗って新橋まで、そして築地外国人居留地に入ったそうよ」
「その後、明治34年にトイスラー院長によって、現在の聖路加国際病院の礎が築かれたんだよね。聖ルカ礼拝堂は、昭和11年に建造された、ネオ・ゴシック様式。J・バーガミニィの設計だよね。旧病棟とともに、東京都選定歴史的建造物になっているね。毎日朝とお昼と夕方に、カリヨン・チャイムが鳴るね。夜はライトアップされて、荘厳な感じがするよね」
いっぽう、ヘンリー・フォールズの功績を称える記念碑は、聖路加ガーデン前の緑道の茂みのなかにある。居留地18番にあたる場所で、彼の邸宅があった場所だ。目のまえには鉄砲洲川が流れ、浦堀橋が架かっていた。いまの居留地通りをはさんで向かいには、東京一致神学校、いまの明治学院があり、通り沿いに隅田川をめざせば、川のほとりにA6番女学校があった。
私たちの今立っている場所には、こんなにもたくさんの”まちの記憶”が眠っている。足元の歩道の絵が、その記憶を語っているのだとすれば…、
「聖ルカ礼拝堂の絵か、ヘンリー・フォールズの肖像画か指紋の絵かなぁ?それこそ、築地運上所やA6番女学校の絵でもいいしね!」
と言ったあとで、
「ちょっとまって…。それなら、トイスラー記念館でもいいじゃない。今は聖路加国際病院の中庭に移築復元されているけれど、もともとは昭和8年に、隅田川畔に宣教師館として建てられたんだもんね。それこそ、聖路加ガーデンのあるところに!」
と、私はひらめく。
「いっぱいありすぎて、決め手がないわ」
と、黄色い小鳥ちゃんも困ったように笑う。
なんといっても、明石町には歴史の落し物が、キラキラと宝石のほうに散りばめられているのだ。まるで、タカラモノさがしをしているみたい。
テーブルには、あったかいコーヒーとクッキー、小鳥ちゃん用にぬるめにあたためたミルクがのっている。あのあと私たちは、京橋図書館と区役所を回ってきたのだった。回ったのはいいのだけれど、完全に迷路にまよいこみ、ぐったりと疲れていた。
ことの顚末はこうだ。
「そこの会社にお勤めの人にきけば、なんの絵だったか知っているかもしれないわね」
と、黄色い小鳥ちゃんは言った。
あの茶色いモダンな建物は、会社のようだった。たしかに、社員さんなら、毎日出勤するときに、あの歩道を歩いているはずである。しかも、絵のタイルは玄関の真正面だ。
「ぜったい知ってるはずだよ、ききたいな~ききたいな~」
と、私は身をよじらせた。
「でも、とつぜん、ここの歩道にどんな絵がありましたか? なんてきけるはずないよね」
「近くに住んでいる人とか、よくあの道を通る人でもいいのよ」
「でも、通りがかった人にとつぜん、きくわけにもいかないし…」
と、私はため息をつく。
「それなら、京橋図書館に行きましょ!」
と、黄色い小鳥ちゃんは言った。
「それしかない!」
色あせた絵をみつけた歩道から、聖ルカ通りをまっすぐ行って、緑青のふいた渋い看板建築の鶏肉屋さんを横目に、平成通りをこえて京橋図書館に行く。
いきさつを司書さんに話してみた。
「そんなところに絵があったんですね。おもしろいですね。画像アーカイブに残っているかもしれませんね」
と、アイデアをくれた。
「なるほど!」
と私と黄色い小鳥ちゃんは顔を輝かせて、さっそく閲覧用のパソコンの前にたつ。しばらく探していると、どうですか?と司書さんも画面をのぞきこんだ。
「歩道の絵は出てきたのですが、明石町の歩道はないようです」
それでも、いくつか興味深い写真が出てきた。
佃仲通りにかつてあった、石川島燈台の絵、茅場町の平成通りにあった、市電の絵や植木の絵…。こうして、歩道の絵を残しておいてくれた人がいるというだけで、貴重なことだ。
「明石町の歩道の絵ねぇ…」
司書さんは、なんとか調べられる方法はないかと、頭をひねってくれる。
「区役所なら記録が残っているかもしれないですね。地域振興課かもしれないですね。歩道の絵だったら、商店街とか町会でそういう絵を置くことが多いんですよ」
「なるほどー!」
私はうれしくなって手をたたき、さっそくとなりの区役所へ向かった。
中央区役所の1階ロビーには、歴代の名誉区民の肖像に、大きな油絵が飾られている。ガラスのショーケースもちゃんとあって、そこには友好都市のオーストラリアサザランド市から贈られた記念品、カワウソの絵のついたお皿や勲章のようなもの、それから友好都市の山形県東根市のふくろうの木彫りなどが飾られている。
地域振興課のある階まであがり、さっそく、歩道の絵がどんな絵だったのか知りたいのですが、と用件を述べると、たぶん、そんなことを訊きにくる人なんていないのだろう、少々おまちください、と職員さんがうなりながら他の職員さんに相談し、本棚を調べたりしてくださった。
でも…。
「申し訳ございません、そういった記録は残っておりませんで…」
「そうでしたか…ありがとうございました」
と、私と黄色い小鳥ちゃんは肩を落とし引き返したのだった。
「こうなったら、さいごの手をつかうしかないわ」
黄色い小鳥ちゃんは言った。
「さいごの手って?」
「明石町よ、一番大事な場所を忘れてない?」
私はぐっと考えて、ひらめく。
「タイムドーム明石!」
タイムドーム明石の愛称で知られる中央区立郷土天文館。
ここは、中央区の歴史や文化を学ぶうえで、もってこいの場所だ。室町の地下鉄工事のときに出土した、江戸時代の上水道の歴史を物語る木樋と埋桝や、いまの明石小学校やレインボーハウス明石の建築にともなって出土した、この辺りがまだ武家地だった頃の炭化した古文書や、それこそ外国人居留地だった頃、そこに住んでいた宣教師が捨てた牛肉の骨やワインの瓶、西洋式のお皿や水瓶などが展示されている。
また、日本橋魚河岸の繁栄を説明するジオラマや写真、文明開化時代の銀座を象徴する、岸田吟香の精奇水の宣伝看板、白魚献上の御用をつとめた佃島が使っていた献上箱、江戸三座の座席券などを見ることができる。中央区ゆかりの文学者のコーナーも興味深いし、タッチパネル式のなぞなぞコーナーはかなり難しくてうなってしまう。
それと、ぜひとも忘れたくないのは、エレベーターホールにひっそりと展示された、万安楼の欄間だ。万安楼は、新富町につい最近まであった戦前の高級料亭で、その客間にあった欄間が、ちゃんと残っているのだ。
エレベーターをあがると、こんにちは、と受付のお姉さんが迎えてくれた。こんにちは、と私と黄色い小鳥ちゃんも挨拶する。さっそく、
「じつはそこの歩道に、絵のあるタイルがあったようなんですが、今は色あせて絵が見えないんです。どんな絵だったのか、もし資料などが残っていれば、お伺いしたいのですが」
と、私はたずねた。
お姉さんはちょっと考えると、お待ちください、と言って、奥のほうに入っていった。しばらくして戻ってくると、どうぞ、と事務室を案内してくれたのだ。
「なんだか本格的になってきたね」
と、私は黄色い小鳥ちゃんに耳打ちする。
事務室のなかでは、職員さんたちが机に向かっていた。手前に応接用のソファーとテーブルがあって、中にいた職員さんが、ソファーをすすめてくれた。
「ありがとうございます」
と言って、私は腰かける。
窓のそと、真新しい景色が広がっている。
「ここからだと、あかつき公園が見えるんだね…なんだか不思議」
外を歩いているときとは、ぜんぜん違う風景だ。
私は思わず、感心して首をのばす。どんな景色が見えるかは、窓の数とおなじだけある。たとえおなじ町だとしても、さらに同じ建物だとしても、その高さや位置、角度などによって、まったく違う景色が見えるものだ。私たちは、そのたびに新しいまちの表情をみつけたような気持ちになって、感心してしまう。
「どんなお問い合わせですか?」
と、ひとりの職員さんが私の向かいに座り、快い笑顔を向けてくれた。
そして私は、歩道の絵のことを説明すると、職員さんは地図を持ってきてくれた。
「あぁ、この辺りですね」
うん、うん、と考え、
「もしかしたら、アメリカ公使館の絵があったのかもしれませんね」
と言った。
「いまの聖路加ガーデンのあたりです。ここに、明治8年から23年まで、アメリカ公使館があったんですよ。場所も近いし、どうでしょうね」
「なるほど~」
と、黄色い小鳥ちゃんと私は、地図をのぞきこむ。
「アメリカ公使館跡の記念碑は、聖路加国際病院の中庭に3基、聖路加ガーデンの親水公園に2基ありますね。白頭鷲、星条旗のデザインの盾、五稜の星、をかたどったものです。あれは、伊豆諸島でとれた小松石でできているんですよ」
と説明してくれたあと、じつは…と間をとって、
「あと3基あるんです!」
と言った。
「えっ!あと3基あるんですか?」
これはミステリーだ。じつは全部で8基あったことになる。その3基は、どこへ消えてしまったのか…。
「昭和59年に、赤坂のアメリカ大使館へ寄贈したんです。3種類を、各1基ずつ」
職員さんは、ひそひそ声でそう言って、ちいさくうなずいた。
「たぶん今も、アメリカ大使館の庭に、置いてあるはずですよ」
「なるほど…」
と、私もうなずく。
見てみたいけど、大使館のなかでは、とても近づくことができない…。
それにしても、
「アメリカ公使館て、どんな建物だったんでしょう?」
と、私は気になった。
「あまり資料は残っていないのですが、下見板張りのクリーム色した洋館だったそうです」
と、職員さんは言った。そして、『近代文化の原点 築地居留地』という本を見せてくれた。巻頭の写真のページに、そのモノクロの写真は載っていた。
「でも、絵としては弱いかな…」
と言う。
「だって、とくに特徴のある建物ではないですもんね。この絵を見て、アメリカ公使館だってわかる人は、少ないでしょう。だとしたら…、もっとインパクトのある建物…」
「築地ホテル館かしら?」
「それだ!」
職員さんは、指をならす。
黄色い小鳥ちゃんは、得意そうにおすましをする。
「小鳥ちゃんすごい!」
たしかに、歩道のタイルは、横長だった。築地ホテル館は左右対称の擬洋風建築。しかも、客室が102室もある大きいホテルだったときくから、横長の画面のほうが、おさまりがいいだろう。数々の錦絵でも、横に大きく両手を伸ばしたような描き方をされている。
「そういえば、すこし青っぽかったわよね」
「うん、うん」
「築地ホテル館の屋根かもしれないですね!」
と、職員さんが身をのりだした。
「錦絵によっては、屋根が青っぽく描かれているものもあるんですよ」
「いいですね!」
私はうれしさのあまり両手をたたく。
さらに黄色い小鳥ちゃんが、
「海っていうこともあるかも!」
「そうかぁ!なんといっても、青い海を望んでいたんだもんね!」
「空だったりして!」
と、職員さん。
「なにしろ、眺めのいいホテルでしたからね!」
「うんうん」
私たちは3人顔を見合わせて、
「もう決まりですね」
と、うなずきあった。
おもいがけず答えを出してしまって、すっかり納得してしまって、それでいて、もう答え合わせのしようがないことに、私たちはしょうしょう手持ちぶさたになり、
「見たかったですねぇ…」
「写真が残っていればね…」
「ないみたいんなんです…」
「そうなんですかぁ…」
と、ぶつぶつと言葉を交わしながら、それでもにこにこ笑っていた。
私たち、正真正銘の中央区ファンだ。
築地ホテル館の描かれた絵を探してみる。
ざっと挙げただけでも、二代国輝「東京築地鉄砲洲景」・「東京築地ホテル館」、三代広重「東京築地ホテル館」、これには蒸気船シティ・オブ・エド号も描かれている、歌川芳虎「築地ホテル館表掛之図」、五雲亭貞秀「東京築地ホテル館海岸之図」などなど。
築地ホテル館を描いた錦絵は、ゆうに100を超えるという。それほど、人々の関心をあつめた名建築だった。
「そういえば、どの絵も、塔屋のてっぺんからなにか吊り下がっているけれど、あれ、なんなんだろう?」
クリスマスの鈴のような、鐘のような、ぼんぼりのようなものが数個、紐にくくりつけられ、それが4本、四方に流れている。
「あれは、風鐸なんですって」
と、黄色い小鳥ちゃんは言った。
「風鐸?」
私は、すっとんきょうな声をだす。
「よくお寺の屋根から下がっている、大きい風鈴みたいのでしょ?なんという和風!」
小鳥ちゃんは、くくくっと笑って、
「西洋式のホテルとは言っても、江戸っ子の心意気が生きてしまったのね」
「おもしろい!あんなにたくさん風鐸を下げちゃうなんて。音もちゃんと聴こえたのかなぁ?」
「どうでしょうね、そもそも、音色を楽しむために吊り下げたのかしら。装飾のための意味合いが強いように思うけど。それと、魔除けの意味もあったのかもしれないわ。でも、考えてもみて、その頃は、今のように騒音もひどくなかったはずよ。夜なんてそれこそ、しぃ~んと静まりかえっていたんじゃないかしら」
「じゃあ…風の強い日なんかは、部屋の中にいて、カランカラン…っていう音色が聴こえたかもしれないね…。わぁ、風流だなぁ…。泊まった外国人は、これがジャパニーズねぇ!なんて思ったんだろうねぇ…」
それにしても…。
「あぁ~!築地ホテル館に泊まってみたかったなぁ!」
と、私はクッキーをかじりながら、ため息をつく。
「またはじまった!」
と、黄色い小鳥ちゃんが笑う。そして、
「もし、あなたがその時代に生まれていたとしても、築地ホテル館に泊まれるとは限らないのよ。あなたが外国人で、しかも商取引をしないわけにわね」
と、厳しいひとことも忘れなかった。
そんな小鳥ちゃんも、どこか夢みるようなまなざしをしている。私たちはコーヒーとミルクをすすりながら、かつての築地外国人居留地に思いを馳せた。
つづく
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃんⒸChuo City Tourism Association Correspondent Minato-kko chan 2023
♪あとがき
この物語は、平成30年頃、著者がじっさいに、明石町に色あせた歩道絵をみつけたときのことをもとに書いたフィクションです。
中央区立京橋図書館は、令和4年12月4日に、本の森ちゅうおうとして、新しく開館ました。物語にでてくる地域資料室、ならびに中央区立郷土天文館タイムドーム明石は、同施設内に移転・併設されています。
現在の郷土資料館の展示内容は、変更されている場合があります。展示内容の詳細は、郷土資料館へ直接お問い合わせください。
本の森ちゅうおう
東京都中央区新富一丁目13-14
中央区立図書館ホームページ
https://www.library.city.chuo.tokyo.jp
中央区立郷土資料館(本の森ちゅうおう1階・2階)について
https://www.city.chuo.lg.jp/bunkakankou/bunka/kyodoshiryokan/index.html
教育委員会事務局 図書文化財課 郷土資料館
03-3551-2167
♪参考文献「歩いてわかる中央区ものしり百科」中央区観光協会/「近代文化の原点 築地居留地」NPO法人築地居留地研究会 /「中央区区内散歩」中央区企画部広報課/「中央区の昔を語る(七) 明石町・富沢町」中央区教育委員会 平成5年/「中央区の区民文化財」中央区教育委員会 平成3年/「明治期の都市における建築と町並みに関する歴史的研究」初田亨 昭和58年/「ヘンリー・フォールズニッポン滞在の9年間-日本の生活と仕来りの概観」明治大学教養論集
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第174号 令和5年3月14日