ふーちゃん

新川はその昔 霊岸島 と言われていました。

中央区は「検潮所」・国土地理院は「験潮場」としていますが、私達が子供のころから 慣れ親しんでいた名前は「霊岸島験潮舎」です。その違いはインターネットで検索いただき、今回は、 あえて慣れ親しんだ色々な名称を使わせてください。

町会の古老が書き残した次の文章で、昔の様子が分かると思います。
『モルタル塗りの 小さなホコラのような建物が、川に突き出て建っているのが、明治23年に開設された 「霊岸島験潮舎」です。毎日、潮の満ち干が調査され、新聞の天気予報欄に、 「東京湾」または「築地」の見出しで掲載されていました。』

次に、私の疑問です。
何で「霊岸島?」と思っていましたが、それも記述がありました。
『三代将軍徳川家光の頃、 八丁堀東方の沼沢地の埋立工事が開始され、霊岸寺が建立されました。そのため、 今の新川全体が霊岸島と総称されたのです。』という事で納得しました。

 

 

交無号(こうむごう)の周りはお花がきれいです。

交無号(こうむごう)の周りはお花がきれいです。 新川はその昔 霊岸島 と言われていました。

交無号は平成18年に現在地に移転をしましたが、後ろに「大切にしましょう 水準点」 とあるだけで説明がありません。そのため、国土地理院に説明板の設置をお願いしました。

平成21年に立派な説明板と、セレモニーとして明正小学校の4年生を招いて、交無号の役割と測量の仕方も教えてくださいました。
その時の「富士山の高さもこの交無号が基準になっているのです。」と言われたことが、今でも印象に残っています。

交無号(一等水準点)は現在も機能していて、国会議事堂の前庭に ある日本水準原点の標高はここからの測量で決定されているそうです。

交無号と検潮所の関係はとても難しいので、是非、中央区民文化財の解説国土地理院のホームページを閲覧してください。

昨年6月3日「測量の日」における功労者感謝状贈呈式がありました。
越一婦人部は、国土地理院から花壇がきれいという事で、感謝状をいただきました。


お知らせ:5月23日まで「夏の花に植替え中」ですのできれいではありません。

新川は四方を川に囲まれています

新川は四方を川に囲まれています 新川はその昔 霊岸島 と言われていました。

新川は、八重洲通りを中央大橋に向かって行き、亀島橋を渡ったところから始まります。

明正小学校と越前堀公園を中心に、隅田川・日本橋川・亀島川にぐるりと囲まれた地域です。

八重洲通りのイチョウ並木

八重洲通りのイチョウ並木 新川はその昔 霊岸島 と言われていました。

4月の初旬です。我が家の鉢植えのイチョウの葉が生まれたころ、八重洲通りのイチョウ並木はもう春を謳歌していました。この鉢植えのイチョウは明正小学校の校庭にあった大イチョウの子供です。

校庭のイチョウは、あの戦争にも焼けずに残り、ずーと学校を見守っていたので、明正小学校を建て替えるとき、その枝を切って、先生や児童達が挿し木にして育てました。そしてそれが我が家にも来てくれました。

今は4月下旬なので、八重洲通りは、もう立派なイチョウ並木になりました。
そして道路の中央にはつつじが美しく咲いています。

いつ見ても美しい南高橋

いつ見ても美しい南高橋 新川はその昔 霊岸島 と言われていました。

八重洲通りから来て、中央大橋の手前を右に行くと南高橋があります。
ご存知のように、南高橋は、関東大震災で被害を受けた旧両国橋の中央部分を移設してできた橋です。
現存する明治期の鉄骨橋梁として2番目に古いものだそうです。
今度、南高橋を通ったときには、見上げたり、周りを見たりしてください。
ロマンと歴史を感じるかもしれません。

 

徳船稲荷神社

徳船稲荷神社 新川はその昔 霊岸島 と言われていました。

南高橋際にある小さなお稲荷さんが徳船稲荷神社です。
ご神体は、徳川さまの遊船のミヨシ(船のへさき)を切って、彫刻されたものと伝えられています。振袖火事や関東大震災でも難を逃れたご神体の霊験あらたかで、昭和6年に町の守護神として栄橋際に安置されましたが、先の東京大空襲でご神体もろとも焼失してしまったそうです。しかし町内有志が昭和29年に、元の栄橋際に祠を再現をしてくれました。

この栄橋も、中央大橋の架橋工事のため無くなることになりましたが、平成3年に、この南高橋際に遷座いたしました。度重なる移転はありましたが、現在は越一町会の皆様が朝夕のお掃除や11月に例祭をしています。