桜やよい

明治時代に田所町に住んでいた幼馴染から義祖母への
オッペペケの替え歌が書かれた手紙を親戚宅から発見!

主人から1885明治18年6月24日生まれの祖母が中央区堀留町2丁目(日本橋区田所町19番地)に住んでいたという話は聞いていました。私にとっては義祖母に当たります。名は田中晴(はる)、幼馴染の名は松本こと子も同じ田所町19番地に住んでいたので、長屋住まいだったのかもしれません。

はるの父親は江戸時代からの大工ですが、娘の教育は三味線等の芸事ではなく、算盤と書道を習わせた理由は女性と言えども読み書き算盤がこれからの世の中に役に立つと考えたと思われます。高等小学校にも4年間通ったと伝わっていますが、残念ながら学校名はわかりません。推測の域ですが、有馬のみが周辺地域で高等小学校であったかと思われます。田中家の墓は、浅草の曹源寺(かっぱ寺)にありました。

そのことを裏ずけるように、国立第一銀行頭取の佐々木勇之介の兄慎思郎家《二十銀行頭取・東京海上火災保険取締役・第一銀行取締役・日本耐火煉瓦取締役・東京商業会議所特別議員・電気・炭鉱業界にも手腕を発揮》に1899明治32年14歳でご奉公に上がり、裁縫が得意でしたので、座敷奉公となりました。佐々木家子息の学習院への送り迎えをしたり、絵が上手なはるは子供たちに絵を描いてあげたりしていたと伝わっています。

「近代名士家系大観」佐々木慎思郎参照

その後のはるは1906明治39年22歳で結婚するまで、奉公先に住んでいました。その頃の書簡です。

 明治時代に田所町に住んでいた幼馴染から義祖母への
オッペペケの替え歌が書かれた手紙を親戚宅から発見!

 

 

 明治時代に田所町に住んでいた幼馴染から義祖母への
オッペペケの替え歌が書かれた手紙を親戚宅から発見!

内容は、オッペペケの歌詞が書かれています。田所町の地名が入っていますので、中央区で流行ったと思われます。

『本の森ちゅうおう』中央区教育委員会・図書文化財課郷土資料館の湯水基輝文化財調査指導員に訳していただきました。その訳に私訳を加えさせていただきました。

【初かりがねの、そらさむく                ややあつさも、うすらぎて     

 あいきょうを、あをぐ、扇の     末廣く、沖風きよく、朝日

 かげ、いさみのはだの、田所町    隅にひとりの、色男、愛嬌あ

 つて、ほどもよく、ぼたんあ     やめと、咲き初めて、写真と共に

 二人つれ、うつす新造の       たへまなく鼻白(皐月)の

 静かの、はつかつを、てっぺん    かけたかほととぎすすしは

 すい物、うまひ物、あつさに     よいの、がビヤホール、キリンヱ

 ビスや、札幌や、ロンドン異国の、  大みなと、とさんするのが、

 ふじの山、ヱゝ、鯛に鰹、魚     めじまぐろ、さあーけん

 もう一軒、当たりが有って      はづれなし、松虫鈴虫

 ちんちろりん、とんぼげじ      げじ、のみしらみ、みかん

 いちごに、さつまいも、芝居     んや、じいさんばあさん

 あぶないよ、新造、年まに      下女おんば、皆さんごらんよ

 オツぺケぺあばよ

 かしこ

 平平平平(シラタイラヘッペイ)ゟ(より

 おはるちゃんヱ)】

封筒

封筒 明治時代に田所町に住んでいた幼馴染から義祖母への
オッペペケの替え歌が書かれた手紙を親戚宅から発見!

〚封筒表〛 はる子様  御許え

〚封筒裏〛 まつ本 こと子ゟ(より)

寿 四月十六日

明治の田所町付近の地図

明治の田所町付近の地図 明治時代に田所町に住んでいた幼馴染から義祖母への
オッペペケの替え歌が書かれた手紙を親戚宅から発見!

川上音二郎とオッペケぺー

川上音二郎とオッペケぺー 明治時代に田所町に住んでいた幼馴染から義祖母への
オッペペケの替え歌が書かれた手紙を親戚宅から発見!

川上音二郎1864文久4年1月1日生-1911明治44年11月11日没は大きな藍問屋に生まれ、筑前黒田藩(福岡藩)出身の『オッペケペ節』で一世を風靡した興行師・芸術家・新派劇の創設者。書生芝居・壮士芝居はやがて新派となり、旧劇をしのぐ人気を博しました。

日本人で最初の世界的エンターテインメントとして1900明治33年パリ万国博覧会で人気を博し、妻の貞奴と共に国際舞台で大活躍しました。日本人で初めて『オッペケペ節』をイギリスのグラモフォン・レコード会社でSP盤収録も果たしました。唯一明治の演劇人音二郎の肉声を聞くことができます。

川上音二郎は、博多で過激な政治運動を民権思想の新聞記者『自由童子』と名乗って投獄を繰り返していました。政治的意見を表明すればすぐ弾圧される明治時代に音二郎は言いたいことをオッペケペ節の歌詞の中でズバズバ言ったので、民衆に爆発的な人気を表しました。

東京では、1891明治34年壮士芝居の役者として浅草中村座で、大喜利に余興として、後鉢巻きに赤陣羽織、日の丸軍扇をかざして歌いました。人気がでると、歌詞はどんどん増えていきました。流行歌として、日本中に伝播していきました。

『中村座大当書生演劇オッペケペー(日本橋長者町福田板ー明治24年7月、大郎坊小國五代國ー元は変体仮名か)』

を参照し、『オッペケペ節』については西沢爽著『日本近代歌謡史』上(桜楓社刊・平成2年11月20日。初版)台29章(頁1839-1910、さらに下巻2050-51)にオッペケペーの歌詞が記載されています。

(ウィキペディアより参照)

本の森ちゅうおうにこの明治期の手紙を寄贈させていただくことにしました!

本の森ちゅうおうにこの明治期の手紙を寄贈させていただくことにしました! 明治時代に田所町に住んでいた幼馴染から義祖母への
オッペペケの替え歌が書かれた手紙を親戚宅から発見!
 明治時代に田所町に住んでいた幼馴染から義祖母への
オッペペケの替え歌が書かれた手紙を親戚宅から発見!

中央区は1923大正12年9月1日関東大震災、1945昭和20年3月10日東京大空襲と2度の大きな災害に見舞われています。そのために、民間の資料はほとんど残っていないと思われます。この書簡も子孫が、埼玉県に疎開していたお陰で令和になって見つけられたものです。

中央区の明治期の歴史に少しでもお役に立てるのならばと、この書簡を寄贈させていただくことにいたしました。