三浦按針の日本人妻は「馬込勘解由」の娘『Oyuki?』
慶長5年頃(1600年)、望郷の念を強くした三浦按針は徳川家康に帰国を要請しましたが、その力量を高く評価した家康は帰国を認めず,代わりに江戸の住居と三浦半島逸見の領地を与えました。日本人の妻が紹介されたのもこの頃と思われます。
三浦按針の日本人妻には謎が多く、明治期のある歴史書には妻が「馬込勘解由の娘」とあります。しかし日本の古文書にもイギリス・オランダ両商館の記録にも裏付ける記録はないようです。にもかかわらずネット上では妻の名を「おゆき」としたものが多くあります。これはどうしてでしょうか。
アダムス研究の第一人者「P・G・ロジャース」は1964年アダムスの故郷英国ジリンハム市で行った記念講演で、「アダムスは日本の娘と結婚することを決心した。日本の街道の一つで荷馬の提供や、駅路の世話を職業とする馬込勘解由の娘であった」と述べています。
三浦按針(ウィリアムアダムス)
慶長18年8月、徳川幕府はイギリスと最初の対外条約を締結しました。通商の自由の他、江戸の住居の自由を許しました。先に来たポルトガル人もスペイン人もこのような特権を与えられていません。これもアダムスが家康に重用されていたからでしょう。
この特権を利用して、平戸に商館を開きリチャードコックスが商館長として赴任してきました。将軍に会うために江戸出府した際の日記によると、
「浦賀に向かい、逸見に夕方到着した。逸見はアダムスが手にした領地である。キャプテンアダムスと夫人と二人の子供に会った。息子の名前はジョゼフである。アダムスは1620年5月16日に死んだが、ジョゼフという息子が相続することになっていた。財産の半分を本国の妻子に、残り半分を日本人妻お雪と二児ジョゼフとスーザンナに渡すことにした。」と書かれています。この書面から日本人妻の名前は「ユキ」かもしれないという説が普及しました。当時としては少し近代的すぎる名前だという意見もあり、疑問が残ります。
三浦按針の妻は本当に「おゆき」か?
「アダムスは馬込勘解由の娘と結婚」という史実を否定する学者が出てきました。幸田成友博士で「アダムス夫人が馬込氏の娘であることは史実に見当たらないと言っています。逸見に領地をもらったことは事実ですが、石高250石という数字は見えません」明治2年の出版物『大日本商業史』に初めてこれが書かれていますが、この記事の出所が明らかとなっていないので信じられないとのこと。(幸田博士の論文の一部の写真を添付しました)私も入手して内容をチェックしましたが、確かに出所は書かれていません)
この疑問を解決するには、幸田氏は遺族を探し出して系図や過去帳を見ることだと考え子孫から書類を借り出してきましたが、散逸部分があったり焼けたりしていて参考にならなかったようです。アダムス夫人は馬込勘解由の娘であるのか、ユキ(雪)という名前なのかは依然として疑問は残ったままです。
【参考文献】
馬込勘解由: 幸田成友著 東京商科大学研究年報 経済学研究 第四号
日本橋駿河町由来記: 昭和42年3月17日 駿河不動産株式会社