江戸言葉のはじまりと八丁堀「玉円寺」の面白い話
江戸弁の成立はいつかははっきりしていません。家康入府以前といえば太田道灌(1432~1486)ですが、開府当初は上方系の言葉も使われていたと想像されます。徳川家康は三河出身であり、家康に従って江戸に入った家臣や商工業者も三河・駿河さらには尾張・伊勢の出身者が多数を占めていました。京や大阪の稲荷社を勧請して建立したため江戸初期には江戸に多いものとして「伊勢屋、稲荷に犬のくそ」と言われていたように、上方の言葉が主流だったようです。
人形町にある「松島神社」は代表的な例です。この神社の御祭神は次の14にも上ります:
稲荷大神・伊邪那岐大神・伊邪那美大神・日前大神(天照大神)・北野大神(菅原道真公)・手置帆負神・彦狭知神・淡島大神・八幡大神・猿田彦神・琴平大神・天日鷲神(大鳥大神)・大宮能売神(おかめさま)・大国主神(だいこくさま)
社地周辺を埋め立て武家屋敷を造営する工事の際に各地から大工、左官、家具職人達が集められました。そのまま土着した者も多く、町の中心に位置した松島稲荷には各々が出身地の氏神の合祀を依頼したため、結果として御祭神が14柱と、稀に見る多さとなっています。
このような背景の下に「江戸言葉」が出来たのでしょうから、江戸言葉の成立は「これだ」と単純に指摘するのは難しいでしょう。
家康以前の言葉
家康以前の江戸は関東方言の地であったことを考えると、愛知・静岡などの言葉と「関東べえ」といわれる関東方言が混ざって初期の江戸言葉が形成されたのかもしれません。「関東べえ」とは「いくべえ」「そうすべえ」などの助動詞を使った用語です。現在でも関東から東北にかけて多く使われています。
やがて洗練された江戸を示すように「江戸ことば」が形成されたのかもしれません。1600年初頭に江戸の大普請工事が実行され、神田山を切り崩して日比谷・日本橋・新橋など市街地が形成されました。江戸城の南には外様大名、西から北にかけて主として旗本、北東から南東にかけて町人が住みました。その住みわけが、「山の手ことば」「下町ことば」となって江戸弁の2大言葉を形成しました。
おまけ⇒ 八丁堀の(3)不思議
八丁堀の(3)不思議から: 新撰東京名所図会に玉園寺老婦人の八丁堀の(3)不思議を掲載しています。これらの中から3)項について説明しましょう。
1) 寺はあるが墓はない
2) 地蔵橋があって地蔵尊なし
3) 女湯に刀掛けあり
八丁堀の与力・同心は他の人と一緒に混浴(男女という意味ではなく)することを嫌い、女湯に入る習慣がありました。与力・同心の入湯の時刻は「昼」でしたから、女性が昼湯につかることはありませんでした。ですから与力・同心は刀を外して刀掛けにかけ、ゆっくり一人で入湯したという訳です。
玉園寺: 神社本庁に所属し ていない「単立」(たんりつ)寺
参考文献:
日本橋駿河町由来記: 駿河不動産株式会社 昭和42年3月17日発行 非売品
日本橋私記: 池田弥三郎著