連載小説「kimagure湊だより」第10話アメリカ公使館跡記念碑のなぞ 推理編Ⅰ
第10話アメリカ公使館跡記念碑のなぞ
推理編Ⅰ
・・・前回までのあらすじ・・・
明治時代に外国人居留地だった、いまの中央区明石町に残された、アメリカ公使館跡の記念碑。五稜の星、盾形の星条旗、白頭鷲、の三種類の図柄があり、合計5基が中央区民有形文化財になっている。
発見されたときは、荒れ果てた庭の、小高い丘のうえに並んでいた。どんな目的でつくられたのか、誰がつくったのか、いつつくられたのか…。それは今も、謎に包まれたままだ。
中央区ファンの私と黄色い小鳥ちゃんは、生意気にも、この謎を解明しようとのりだした。
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推理①キーストーン
「私、建物の一部を飾っていたのかなぁって、はじめ思ったんだ。たとえば、外壁の一部が模様になって、アクセントをつけているとか、またはエントランスの頭上を飾っていたとか。でも、アメリカ公使館が石造りの建物だったのなら、それもありそうなんだけど、ちがうもんね。木造の2階建てで、クリーム色のペンキが塗られていたっていうし。木造の家の一部に、きゅうに石の飾りがはめこまれていたり張り付けられていたら、ちょっとへんだもんね。しかも、あんなに大きい石だし」
「たしかに、西欧の貴族や王室では、家紋を建物の一部にほどこしたり、キーストーンとしてアーチのうえに飾ったりする習慣はあるわよね」
と、黄色い小鳥ちゃん。
「でも、キーストーンなら、四角いよりも、その図柄の輪郭に合わせたほうがいいんじゃないかしら。盾形の星条旗なら、その形をした石にするだろうし、五稜の星なら、星型の石にするだろうし。真四角なまま頭上に飾ってあったら、なんだか中途半端だわ」
「ほんとそうだよね。そしたら、建物のしたの基礎とか。穴があいているから、通気性もよさそうだし」
と、私は苦し紛れに言ってみせる。
「それはないわ」
黄色い小鳥ちゃんは、即答した。
「でもさ、その頃、アメリカで主流だった建築って、どんなだったのかな」
と、私は気になった。
「アメリカ公使館跡の記念碑みたいな、図柄がくりぬかれたような石を飾る流れがあったとか? そういえば、アメリカ本国では、当時のホワイトハウスってどんな建物だったんだろう。もし、同じような石碑があったら、アメリカから贈ってもらった、という案もうかびあがるね」
「その頃は、船便だったでしょうけど、わざわざ石碑を運ぶのはコストがかかりすぎるんじゃない?それなら、石は日本で調達して、日本の石工さんにつくってもらうほうが、自然だったんじゃないかしら」
と、言ったあとで、
「なんだか、花ブロックを思いだすわ」
そう、黄色い小鳥ちゃんは言った。
推理②塀の一部
花ブロック。
「沖縄地方で独特の発展をした、透かしブロックの一種よ。くり抜きの模様が施されている石造りのブロックね。塀やテラスに使われたり、建物ぜんたいを覆う場合もあるわ。それも、アメリカ文化が浸透した沖縄ならではの建造物なの。もともとは、アメリカ建築によくあった造りだというから、ちょっと近そうね」
私は顔を輝かせる。
「石をくりぬく、という点では、ぴったりだね。しかも、塀というところもいいね」
「でも、やっぱり大きすぎる、という点がひっかかるわね」
と、黄色い小鳥ちゃんは、あくまで慎重だ。
「うん、重すぎて落ちてきそう。こんなに大きく彫らなくてもよかったのに」
と、私もうなずかざるを得ない。
「それに、外国人居留地の洋館といえば、前庭を広くとって、白や水色のペンキで塗った木の柵が多かったみたい。そこに、あじさいがたっぷりと咲き誇っていたそうよ」
「素敵だね…」
そうすると、やっぱり石づくりの塀、というのは可能性が薄いことになる。
ふと、黄色い小鳥ちゃんはつぶやく。
「材料となる石が先にあった、ということかしら」
「はじめから、記念碑をつくることが目的ではなかったっていうこと?」
と、私は首をかしげる。
「石があったからつくった、その石を使いたいから記念碑をつくることにした…」
私たちは、顔をみあわせた。
推理③江戸城の石垣を使用した
「小鳥ちゃん…私、すごいことに気がついちゃった!」
私はしょうしょう、はしゃぎぎみに言った。
「この記念碑って、江戸城の石垣を再利用したものじゃない?」
黄色い小鳥ちゃんは、私をみつめたままあんぐりと口をあけ、くわえていたみかんを落としてしまった。
「それ、あるかもしれない。明治に入ってからできた石橋は、たいがい江戸城の石垣を崩したものを、再利用したものだっていうわ。とくに、常磐橋はそうみたいね。海運橋もそうかしら」
「アメリカ公使館跡の記念碑は、一辺が約80センチ前後のほぼ正方形。これは、ちゃんと案内板に書いてある。江戸城の石垣も、大きいものでは一辺がだいたい80センチ前後みたいだよ。辺の長さに関しては、ぴったり!」
「一致するわね」
と、黄色い小鳥ちゃんも乗り気だ。
「しかも、アメリカ公使館跡の記念碑は、安山岩だよね。江戸城の石垣も、部分によって材質に違いはあるけれど、真鶴産の安山岩を一番おおく使用している、という調査結果があるんだよ」
「真鶴産の安山岩…小松石ね」
アメリカ公使館跡の記念碑の案内文には、小松石、という記述があるのだ。文献によって、伊豆半島の海岸できりだされた安山岩、と言っていたり、ただたんに、国産と言っているものもある。
伊豆半島とその周辺で切りだされた「伊豆石」は質がよく、古くから産業のひとつだ。真鶴石、小松石、根府川石などと呼ばれることもある。
「その頃、江戸城の石垣は解体され、大量に石が出たはずだから、その石を使って記念碑をつくったとしても、すこしも不思議ではないわね」
と、黄色い小鳥ちゃんは、納得したように言った。
ところで、私には気になることがあった。
「アメリカ公使館跡の記念碑ってさ、図柄の正確さとか、たとえば盾形の星条旗の縦線なんて、すぱっと美しくきまっているし、そうとうの腕利きじゃないとつくれないだろうなぁって思ってたんだ。江戸時代の日本に、そんなに腕のいい石工さん、いたのかなぁ?」
すると、
「あなどっちゃいけないわ!」
と、黄色い小鳥ちゃんは、得意気に宣言した。
「江戸城の石垣は、日本が誇る職人技よ。とくに、滋賀県には、穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる伝説の石工集団がいて、今も伝統を守っている。いっぽう、肥後の石工は石橋造りの技術が卓越していたというし。江戸城の石垣をつくるのに、全国から腕のいい石工さんが集められたのは有名な話よ」
「そうなんだね!」
と、私は感心する。
「おもしろいのはね、江戸城建設のときに、全国から大量の石が集められたのだけど、工事がひと段落すると、石がけっこう余ったらしいの。そこで、石を使った工芸品が流行したというわ。たとえば、神社や庭園とかにある灯籠ね、それから石仏。しだいに一般の町人たちも、墓石や石仏をたてるようになってゆき、石工品の需要は減らなかったというわ」
「それなら、アメリカ公使館跡の記念碑を、日本の石工が手掛けたとしてもおかしくないね」
黄色い小鳥ちゃんの話をきいたあとでは、じゅうぶんに納得できる。
ただ、
「ちょっと私、”くりぬかれている”っていうことが、なんだか気になってね」
推理③灯籠
3種類の図柄のうち、五稜の星、盾形の星条旗のふたつは、くりぬかれたデザインになっている。
「くりぬかずに、白頭鷲みたいに浮彫でもよかったんじゃない?それなのに、わざわざくりぬいている。そこに、なにかなぞを解く手がかりがあるような気がするんだ。くりぬかなければならない理由…」
私が考えこんでいると、
「なかに灯りをともしたとか!」
と、黄色い小鳥ちゃんが言った。
「灯籠!」
とっさに、私は思いうかぶ。
「くりぬかれた部分から、蝋燭の灯りがこぼれおちたら、きれいでしょうね」
「その場合、どんな形の灯籠だったのかな」
「灯籠はたいがい、六角形か四角形よね。でも、平安時代は八角形だったらしいわ。八角形なら、アメリカ公使館跡の記念碑がぜんぶで8つだというのは、じゅうぶんにうなずけるわね。でも、そうだとすると、相当大きな灯籠ね」
80cm四方の面を8つもつけた火袋を、支えられる竿と、そこに笠もつくのだ。バランスを考えたら、何階建てにも及ぶ高さになってしまうかもしれない。
「たしかに。それに、重たそう。もしかして、四角形の灯籠をふたつ、ということも考えられる。そのほうが、すこし重量が減るかも。それとも、」
と、私は頭をひねる。
「灯籠でなくても、たまたま手掛けたのが、灯籠をつくるのを得意とする石工さんで、ふだんからつくっている造形の趣向がぬけなくて、置物だとはきいていながらも、くりぬいていしまったとか」
黄色い小鳥ちゃんが、ふんふん、とうなずく。
話はもどって、
「灯籠なら、ほかにもパーツがあったことになるわ」
「そっちはみつかっていないね」
「とくに珍しくないので、早い段階で処分されてしまったのかしら」
「今残っている図柄の部分は、どんなに時が経っても、ずっとそのままにされていたのかな」
「アメリカ公使館が、ホテル・メトロポールになり、そして聖路加国際病院の所有地になったあとも、ずっとね…。なにが残るか、なにが残されるか、それはほんとうに、私たちにはコントロールできないことだわ。それを、偶然とか、運とかいう言葉で呼ぶのでしょうけれど、この世界の半分以上が、そういうものでできているんじゃないかしら」
推理④ふつうに記念碑
「ふつうに、記念碑だと考えるのが、一番かんたんそうね」
と、黄色い小鳥ちゃん。
「でも、私はその説には、前々からひとこと言わせてもらいたいんだ」
「あら」
と、黄色い小鳥ちゃんは、きょろっと私を見た。
「飾るなら、やっぱりプレートとか、台座とか、石碑をひきたててくれるものが欲しいよね。どうして、石碑だけがポツンと残っているんだろう。いちばんひっかっかていたのは、もし記念碑なら、どんな記念なのか、プレートくらいはめるんじゃないかな、って思ったの。もし、独立100周年なら、英語でかっこよく、ゴールドのプレートに『100th Anniversary』なんて刻印したっていいんじゃない?」
「たしかにね」
と、黄色い小鳥ちゃんはこきざみにうなずく。
「あなたが言うとおり、はじめは台座やプレートがあったのかもしれないわね。さっきの話ではないけれど、それが長い時のなかで姿を消してしまって、さいごには石碑だけが残った、っていうのはどうかしら」
「それもあるかも…」
「アメリカ公使館が赤坂に移ったのは、明治23年よ。そのあと、おなじ場所でおなじ建物のまま開業したホテル・メトロポールは、大繁盛して増築までしたっていうけれど。それでも、それからまた長い長い時が流れた。いつしか、外国人たちも去ってゆき、この辺りも寂れていった…。みて」
と、黄色い小鳥ちゃんは、自分のノートを開いてみせてくれた。気になった言葉や、気に入ったフレイズを、メモしているのだ。小鳥ちゃんらしい。
それは、北原白秋の「夕とどろき」という詩だった。
‐春が逝く。……廃果てたメトロポウルホテルに、やはらかな日の光る五時半、
萎れた千鳥草と、石鹸(しゃぼん)の泡のやうな 白い小さな花をつけた雑草のなかを、
やっと五歳のタアシャーが押されてゆく、乳母車に載って‐
「わぁ…素敵な詩だね。すたれた、ホテル・メトロポールかぁ…」
「明治45年に書かれた詩よ。その頃、もうすっかり居留地の街並みは、寂しくなっていたことがわかるわね」
「居留地制度がなくなったのは、明治32年だったね」
「そのあとも、この地には外国的な街並みがずいぶん残っていたのよ」
「そういえば、パンの会の木下杢太郎の詩にも、有名なものがあるよね」
と、私はそらんじてみせる。
‐房州通ひか伊豆ゆきか、
笛が聞えるあの笛が、
渡わたれば佃島
メトロポオルの燈が見える。-
「その頃は、いまの新川の隅田川のほとりから、房州や伊豆行きの船も出ていたのよ。金色の碇のオブジェがあるわね。あの辺りは、湊まちの風情がただよっていた。そして、いま佃大橋が架かっているところには、まだ橋がなくて、渡し船がでていたの」
「どこか物憂げで、でも静かでやさしい、そんな街並みが見えてくるね…」
ふと、不思議な感覚をおぼえる。なぜか私は、この寂しげな明治末年の明石町を、知っているような心地になったのだ。でも、そんなはずはない。
「どうしたの?」
黄色い小鳥ちゃんが、首をかしげる。
「おかしいね、私、とても懐かしい感じがしたの。でも、なぜだろう…」
私が言うと、黄色い小鳥ちゃんは、そっと微笑んだ。
「たぶん、時代はぜんぜん違うけれど、あなたはそれと同じ明石町や築地の雰囲気を、すこし前のこのまちに感じていたんじゃないかしら」
私は、何年か前のまちのことを思いだす。明石町や、築地や、湊や、入船や、佃や…。私が歩いた、すべてのまちのことを思いだす。
「このまちは、生まれることと、終わることを、つねにくりかえしているのよ」
と、黄色い小鳥ちゃんは言った。だから、あなたがその感覚を知っているのも、不思議じゃない、と。
私は知っている。寂しげだった頃の、このまちを。そして、生まれ変わったような、真新しい光りかたをする、いまのまちのことを。
「でもね、けっこう好きだったな。寂しそうな頃の、このまち…」
私はちょっとだけ、なつかしそうに言う。
その寂しさは、けっして冷たいものではなかった。なんとなく、やさしかった。
「居心地がよかった…あなたは、そう言いたいんじゃない?」
と、黄色い小鳥ちゃん。
「どうしてわかったの?」
黄色い小鳥ちゃんはこたえずに、おかしそうに笑った。
私はおもわず、せきをきったように話しだす。
「ちょっと前の、整備される前の築地川公園にはね、それこそ小高い丘があって、よくムクドリの大群が来ていたっけ。それから、ウクレレを弾くおじさんがいたんだよ。堺橋の親柱が、なんの案内板もなく雑草に埋もれていて、水のすっかり干からびた噴水みたいのもあった。カリンがなってるのを、みつけたこともある。5月になると、ちっちゃなこいのぼりが、ほんの3匹ていどさりげなく泳いでいてね、その中途半端なかんじが、愛おしかった…」
「その頃とくらべると、ずいぶんと変わったわね。きれいになったし、人も多くなった」
「そうだね…」
私と黄色い小鳥ちゃんは、ほんのすこし、思いにふけった。
「その後、築地外国人居留地は、大正12年の関東大震災によって、その面影はすべて消え去ってしまったのよ。いま、居留地があったことを物語るものといえば、聖ルカ礼拝堂の十字架と、カトリック築地教会と、明石小学校の校庭の角に飾ってあるガス灯と、レンガ塀だけね」
「それと、アメリカ公使館跡の記念碑」
「えぇ…」
たぶん、このまちは今、もういちど生まれ変わろうとしているのだろう。それは、誰にもとめられない。いつの時代も、そうであったように。
それでも、私にはおなじメロディが聴こえる。
私がこのまちと出会った頃の、はじめてこのまちを歩いたときの、大好きなそのメロディが。
きっとそれが、まちへの愛着というものなのかもしれない。
つづく
♪参考文献「歩いてわかる中央区ものしり百科」中央区観光協会/「戦後沖縄における花ブロックの変成」磯部直希 立命館大学2015年/「国指定史跡常盤橋門跡保存活用計画 第2章常盤橋門跡の概要」千代田区/伊豆市ホームページ/「工芸百科事典」ホームページ/「馬込と大田区の歴史を保存する会」ホームページ/「築地通信」電通恒産 昭和45年3月/「中央区の橋・橋詰広場 中央区近代橋梁調査」中央区教育委員会 1998年
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第221号 令和6年2月16日