新宿にある新橋と京橋の旧親柱
12月29日の日曜日。
久しぶりに中央区の中央通りを歩いてきました。
⋯っとその前に、新宿に行って、新宿御苑の入口近くにある親柱を見に行ってきました。
今の中央通りの新橋と京橋の旧親柱が、何故か新宿にあるというのです。そのことを知って、いつの日にか見に行ってみたいと思っていたのですが、年の瀬になってようやく見に行けました。
右側が新橋、左が京橋の親柱。いずれも大正時代に建てられたものです。それぞれ汐留川、京橋川に橋が架けられていましたが、戦後に川が埋め立てられ、橋も無くなり、今は親柱4基のうちのそれぞれ1基がこの新宿の地に寂しく立っている状態です。
何故ここに親柱が?
ということについてですが、15年くらい前までここ新宿御苑のとなりの敷地に「東京みちの情報館」があったらしく、親柱はその時の展示物だったらしいのです。
京橋の親柱はとても特徴的なので、頭にイメージがよく残っていたのですが、新橋の親柱のほうはこんな形だったけなぁ? というような、あやふやな印象だけが残ることに。
確か、中央通りの昔の新橋の場所にも親柱は残されていたよな?
と思いおこし、現地で確認してみました。
ありました。銀座柳の碑のとなりです。
港区さんの説明書きによると、この親柱は「大正14(1925)年に、長さ20m、幅27mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部」ということですので、この親柱は来年でちょうど100周年を迎えます。
関東大震災の復興事業によって、大正時代末期に架替えとなった新橋。今は橋は無いので「新橋」という街の名前だけが有名になっている状態ですが、関東大震災後にはご覧のような、街灯のついた親柱を持つ橋が架かっていました。
一方の京橋。
こちらも、昔架かっていた京橋の場所に、1基の大正時代の親柱が残されています。特徴的な形で街灯もついていた親柱。近くにはこの親柱の形を模した交番も立っています。
数年前に、この親柱についてはマジメに記事を書いたことがあるので、自分自身としてはとても思い入れのある親柱なのですが、新橋と違って、こちらは関東大震災の前に架替えされた橋ですので、関東大震災という災難を見つめてきた親柱でもあります。
京橋物語1~6 の記事 →こちら
ちょうど100年前の今頃は、関東大震災の復興で、みな一生懸命な時期であったと思うのですが、今の街並みの原点は、この関東大震災の復興のときから生まれたものと考えてよいかもしれません。
来年2025年は、銀座通りでは松屋銀座の百貨店が100周年を迎えます。
松屋銀座だけではなく、中央区では、これからいろいろなものが100周年。
建物であったり。
橋であったり。
道であったり。
今の中央区の街は、その100年前の方々のご苦労があってこそ、と言えるでしょう。
そんなふうに思いながら、中央区の街を歩いてみる。
これからのそれぞれの100周年。関東大震災の復興の際のご苦労に感謝しながら、祝っていただければと思います。
〈歳末の京橋の街並み〉