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■中央区歴史逍遥〈13〉 若桜藩屋敷跡 ~文学者大名・池田定常~

 明石町の聖路加タワーの地には明治期にアメリカ公使館が置かれた。それ以前の江戸時代、一帯は大名屋敷地であった。ここには因幡国若桜藩(わかさはん)上屋敷があり、第5代藩主の池田定常(いけだ・さだつね=号は松平冠山)は文学者としても知られた。

若桜藩

若桜藩 ■中央区歴史逍遥〈13〉 若桜藩屋敷跡 ~文学者大名・池田定常~

 上図は安政期頃の古地図である。若桜藩は鳥取藩の支藩で、鳥取西舘新田藩ともいう。鳥取藩の第2代藩主‣池田綱清が元禄13年(1700)に弟の池田清定に新田15,000石を分知したのが始まりという。江戸屋敷は鉄砲洲にあったことから、鉄砲洲家といわれた。第2代藩主‣池田定賢は2万石大名となり、幕府から松平姓を許された。明治元年(1868)若桜新田藩と改称して廃藩置県となった。池田氏は外様。江戸城柳間詰。

大名学者 池田定常(松平冠山)

大名学者 池田定常(松平冠山) ■中央区歴史逍遥〈13〉 若桜藩屋敷跡 ~文学者大名・池田定常~

 若桜藩第5代藩主‣池田定常は明和4年(1767)生まれ、天保4年(1833)67歳で亡くなった。第4代藩主池田定得(さだのり)の養子。安永2年(1773)、第5代藩主になった。佐藤一斎に儒学を学び、地誌・仏典などにも通じ、文学の三侯のひとりといわれた。林述斎ら多数の文人と交遊。享和元年(1801)35歳で隠居。隠居後も江戸で著述に従事。(「日本人名大辞典」などから)

 上図は『江戸名所図会』の巻頭に寄せられた序文で、「冠山松平定常」の名が記されている。

著作『浅草寺志』『思ひ出草』

著作『浅草寺志』『思ひ出草』 ■中央区歴史逍遥〈13〉 若桜藩屋敷跡 ~文学者大名・池田定常~

 池田定常の著作物が国立公文書館に所蔵されている。同館のHPから紹介してみたい。

 『浅草寺志』は、定常が自ら実地調査しただけでなく、多数の家臣を派遣して、碑銘の書写や門楼、橋梁、老木等の実測とスケッチを行った。これら綿密な調査の末、文化10年(1813)脱稿。さらに校訂を加えて、文政3年(1820)に本書が完成した。

 上図は『浅草寺志』から同寺境内スケッチ図の一部

 『思ひ出草』は、天保3年(1832)66歳のときに綴った随筆。さまざまなことを思い出すままに記したもの。一流の知識人だった著者ならではの、すぐれた考証や興味深い回想が記載されている。正続全8巻は天保3年閏11月完成するが、定常は翌年7月に67歳で没した。(@AM)