吉原そぞろ物語
上の画像は、人形町交差点近くにある(あった)、吉原(元吉原)についての説明碑です。
観光資源としても脚光を浴びている浅草のほうの吉原(新吉原)にくらべて、人形町の吉原(元吉原)については存続した期間も短く、資料が少ないのが残念ですが、たまたま「そぞろ物語」という、元吉原の雰囲気を良く伝えている本に出会いました。色々と興味深い話が多かったので、当時の地図、「新添江戸之図」などとあわせてご紹介してみます。
※出典・参考文献は記事末尾にまとめて記載しています
ちなみに上の説明碑の中の絵は『あづま物語』という、元吉原の細見本(ガイドブック)の中の挿絵のひとつです。(左の図は書籍のほうからのコピー)
図中のくずし字は、左上から右下にかけて「二人はとられんはう(取られん坊:遊女に有り金巻き上げられた男)/太夫(最上位ランクの遊女)/はし(端:ランクの低い遊女)/たいこもち/かぶろ/ところの人(地元民)/あつまおとこ」と読むようです。
元吉原の始まりと終わり
吉原の始まりは、『遊女屋を営んでいた庄司甚右衛門が、それまで点在していた江戸市中の遊女屋を一ヶ所に集めて傾城町を設立することを幕府に何度も願い出た結果、1612年(慶長17)にやっと受理され、さらにその5年後の1617年(元和3)に、およそ2町(約220m)四方の土地などが与えられた』となっています。
江戸幕府開府が1603年のことなので、「ずいぶん早い時期から・・」とも思いますが、そぞろ物語には、設立前後の吉原の様子も描かれているようです。
『・・・東南の海ぎはによし原あり、色ごのみする京田舎の者ども、此よし原を見立てけいせい町を立てんと、よしのかりあと爰(ここ)やかしこに家作りたりしは、たゞかにの身の其程に穴をほり、すみ居たるがごとし・・・(中略)・・・日をおい月をかさねるにしたがつて、此町繁盛する故、草のかりやを破り、にしよりひがし、北より南へ町わりをなす、先本町と号し、京町、江戸町、ふしみ町、堺町、大坂町、墨町、新町などと名付・・・・』
公認遊郭となる前は、まるで「カニの穴」のような粗末な場所で営業していたようです。さすが、世界最古の職業と言われるだけのことはありますね。あと、町名に関西の町名が結構混ざっている点も面白いです。「色好みする京田舎の者ども」が集結したのもしれないですね。
ただ、当初は葦の生い茂るような江戸の外縁部だった吉原も、吉原周辺の埋め立てや開発が進んだことでいつしか江戸市街に取り込まれてしまいます。その結果、1656年には幕府から「さらに外縁の浅草か本所に移転するよう」要請が出されるのですが、ぐずぐずしている間に1657年の明暦の大火で吉原は全焼。移転せざるを得なくなって浅草日本堤で再スタートすることになりました。
そぞろ物語とは
寛永18年(1641)という、元吉原が繁盛していた時代に発行された本です。著者は三浦浄心という、もとは北条氏政に仕えた武士でした。
序文(カッコ内は私の補足)で・・
『江戸町(元吉原の中にあった町内)のかたはらにきよぢう(居住)する、三五あんぼくさん入道(三五庵木算入道)が見聞きしことを、書あつめたる草紙五十二冊あり、されども他見のあざけりとて人にも見せず、ただをのが心をなぐさむといふ、愚老旧友なれば、此文を披見するに、そゞろ物語二十冊には、世のわらひぐさ狂言綺語を記したり、此内に遊女のうはさあまた所にあり、我是をひろひ出し、一冊にうつし取て、則そゞろ物語と名付侍りぬ』
・・と、まるで自分の友人が書いたようなことを書いていますが、実は「三五あんぼくさん入道」というのは浄心本人のこと。草紙五十二冊というのは、浄心作の「慶長見聞集:全52冊」のこと。ちょっと人を食った人物のようです(^^)
一大エンタテイメントスポット元吉原
遊郭内には、遊女と遊ぶだけでなく、さまざまな娯楽があったようです。そぞろ物語にも
『のうかぶきのぶたいを立をき、毎日ぶがくをなして是を見せける、此外勧進帳、蛛舞(綱渡りのようなもの)、獅子舞、すまふ(相撲)、じやうるり、色々さまざまのあそびして興じける、此等の見物をかごとなし(口実にして)、僧俗老若貴賤、此町に来り群集す』とあります。
江戸開府初期の庶民の暮らしは決して豊かなものでは無かったはず。そんな中に不夜城のようなエンタテイメントスポットが出現すれば、人々は(男性だけかもしれませんが)誘蛾灯に引き寄せられるように集まったのかもしれません。
とはいえ、遊女と遊ぶというのは、当時でも少しハードルの高い遊びだったのでしょうが、ポイントは「かごとなし」というところ。演芸などの、気軽に楽しめる娯楽を数多く用意することで、来場者のハードルを下げていたのかもしれないですね。これもそぞろを引用すると
『ちからをもいれずして、諸人のこゝろをまどはせる、おそろしきけいせい(傾城)のはかりごと思の外なり』とあります(笑)。
※左の画像は、そぞろ物語・あづま物語などを収録している「江戸吉原叢刊」の表紙
和尚
一般的には最上位ランクの遊女は「太夫(たゆう)」と呼ばれましたが、江戸初期、元吉原の頃にはさらにもう1つ上のランク、「和尚(おしょう)」というものがあったようです。もともとランクの高い遊女は半芸半娼というか、芸事にも秀でていることが当然でしたが、和尚クラスは「男装の麗人」とでもいうべき、「男装をしていても美しい」姿だったようです。
そぞろには、『此女郎衆の外に和尚様と名付、ようしょく無双の美人達おはしますが、此人には生れながらの色かたち其まゝにて、粉黛といふことばを名をもしり給わず、其面影花にも月にもたとへがたし、ばらばらとこぼれかかりたるびんのはづれより、ほのかにみえたるまゆのにほひ、ふようのまなじりたんくはのくちびる・・・・』と、まるで長恨歌に歌われた楊貴妃のような形容をしています(^^)
有名なのは京都島原で名を馳せ、江戸の元吉原に下って来た「佐渡島正吉」。女歌舞伎の一座の座長でもありました。そぞろでも「三島の平太郎三年奉公の事」というタイトルで、正吉のあまりの美しさに人生を狂わせてしまった男の話が載っています。
しかしながら1629年、風俗の乱れに業を煮やした奉行所から「遊女追放命令」が出され、『をしやう(和尚)と称する遊女三十余人、其次に名をうる遊女百余人、皆ことごとくはこね(箱根)相坂をこし、西国へながし給ふ』という記述もありました。
※右の画像は、再びあづま物語から
橋の名前や町名にも注目です
上の地図は新添江戸之図の一部です。中央区の歴史をかじった人であれば「あれっ?」と思う記載がありますよね。そう、江戸橋を北に渡ってすぐ右、「あらめ(荒布)橋」として知られている橋が「思案橋」になっていて、「思案橋(or 小網橋)」として知られている橋が「わざくれ橋」と書かれています。
実は元吉原が健在だった頃、「吉原に行こうかどうしようか」と思案したことによる思案橋は、この地図の場所にあったようです。そして、わざくれ橋を渡る頃には「もうどうにでもなれ」と決心していたとかしてないとか。そぞろ物語にも『よし原町のはし珍名の事』というタイトルの章でそのことが解説されています。
あと、当時ならではの名称として面白いのは「甚右衛門町」。「おやじ」と呼ばれた庄司甚右衛門を偲んで名づけられたことで有名な「親父橋」だけでなく、甚右衛門町という、名前そのままの町名もあったのですね。
箱崎川の下流にも面白い名前が見えます。のちに国芳の東都三ツ股の図などで有名になる「三つ股別れ」は箱崎川最上流、隅田川との分岐点のあたりですが、この頃は箱崎川の河口のあたりを三つ股と呼んでいたようです。
参考文献(収録本)
「続日本随筆大成別巻1」(吉川弘文館/S56):そぞろ物語などを収録。
「江戸吉原叢刊〈第1巻〉遊女評判記1」(江戸吉原叢刊刊行会 /2013):そぞろ物語、あづま物語などを収録。
「東海道名所記1」(浅井了意著、朝倉治彦校注/東洋文庫346/1979):元吉原・新吉原混在した描写。解説(校注)が秀逸。
「喜遊笑覧4」(喜多村いん(竹冠に均)庭著、岩波文庫):巻之九が娼妓用語の用語集。
「川と掘割20の跡を辿る江戸東京歴史散歩」(岡本哲志著、PHP新書):江戸東京というタイトルながら99%は中央区のこと。特派員必読かも?
「新添江戸之圖」(国会図書館デジタルコレクション/書誌ID000007277563)