yaz プロフィール
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二代目 杉村甚兵衛襲名
初代 杉村甚兵衛は不幸にして二人の息子を病のため失ったので、京都の弟甚兵衛と相談の上その三男米治郎を養子に迎えた。米治郎は明治元年16歳の時に京都から東京に上ってきた。生まれつき肝の据わった男で、それを示す少年の頃のエピソードがある。唐物屋を経営していた実家に某夜浪人が押し込みに押し入ったが、大人たちはいち早く屋根伝いに逃げてしまい、一人取り残された。米治郎は5、6人の浪人に囲まれ、白刃をつきつけられて、 「小僧、金のある所に案内しろ。下手に隠すと命はないぞ」と。お定まりの脅し文句を並べて迫られたが、米治郎は、「私は最近小僧に来たばっかりやさかい、何も知りません」 と言ったきり応じなかったので、とうとう浪人たちはあきらめて店先に積んであった毛布を少しばかり担いで、しぶしぶ引き上げたという話が残っている。 東京に出てからは、名を甚三郎と改め豪放な養父と厳格な養母によって厳しく鍛えられた。明治10年(1877)、25歳の時に、養父は隠居したので家督を譲られて二代目甚兵衛を襲名した。
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丁稚奉公
長崎屋源右衛門末裔出版「父が子に語る長崎屋源右衛門の生涯」を手に入れたので、何回かに分けてトピックを紹介します。今回は前回紹介した「杉村」と関係の深かった「長崎屋」の息子が丁稚奉公に出た様子を紹介します。 長崎屋の長男「忠太郎」は金座の役人をしていた某家に養子に出されたので、世継ぎは次男の多三郎でした。多三郎が生まれた頃には長崎屋は昔日の面影はありませんでした。他家に丁稚奉公に出ている多三郎の様子が記述されているので『丁稚奉公の悲惨さ』の例として紹介します。 江戸・明治時代に商家に生まれた以上は、商売を覚えるためには丁稚奉公からスタートすることが基本でした。多三郎の場合、丁稚奉公に行った先は現在創業170年のアパレルメーカー老舗です。初代杉村甚兵衛が近江から出てきて草履を脱いだのが長崎屋であり、第11代源右衛門が甚兵衛を友人の丁吟(丁子屋、小林吟衛門)に世話し、そこからのれん分けして丁子屋となり、現在に至っているので親しい関係からこういう話になったのでしょう。多三郎はここで丁稚奉公を始め、この店で実業家として大成しました。小学校も出ていない多三郎の人生訓は「生家を安泰にしておけば、自分のことは考えずとも主家がよいように処置するという物でした。」まさに、長崎屋が徳川家とともに260年間を言い表したような人生訓であった。しかし多三郎は江原姓を名乗っていません。 丁稚奉公:丁稚奉公 (でっちぼうこう)とは、一般的に、少年が一定期間、商人の家や職人の家に奉公し、雑用などの仕事をすることを指します。転じて、年少のころから下働きとして勤め始めることや、雑役や使い走りなどにつかわれることを意味することもあります。 丁稚 (でっち):商人や職人の家に奉公する少年。小僧とも呼ばれます. 奉公 (ほうこう):主人に仕えること、他人に召し使われて勤めること. 丁稚奉公:丁稚として商家などに奉公すること、またはその者. 意味:年少のころから下働きとして勤め始めること、雑役や使い走りなどにつかわれること
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