yaz プロフィール
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ファショナブルな銀座はどうしてできたのか?
江戸時代の銀座は幕府御用達の武具や幕府直轄の銀貨鋳造の町であり、幕府の庇護を受けた能屋敷がある程度で、大商業地「日本橋」とは比較にならないほどの町でした。ところが明治時代に入って、玄関先として「新橋停車場」が出来蒸気機関車が走り、西洋風の「煉瓦街」の建設が始まります。築地には外国人居留地が出来、政府の欧化政策もあって銀座は一気に近代の街に生まれ変わります。なぜ銀座の商人達は他と違う先進性・好奇心を持って現在のような方向に進んだのでしょうか? 思いがけないでしょうが、銀座の対抗馬は「人形町」でした。大正2年には人形町・堀留町にブラジルコーヒーを出す「カフェパウリスタ」が、関東震災後にはコーヒーと音楽を前面に出した喫茶店や、酒を出し女給のサービスと新興喫茶店が増え、昭和10年ごろには人形町通りから一本入った道の両側の路地に80軒余りのカフェーが出現しました。(林順信: 『東京路地細見』)明治末年頃には全国各地から上京して開業しようと考える人々は「銀座か人形町」のどちらかの選択をすることになります。 人形町ではなくなぜ銀座が選択されたのでしょうか?銀座を含む江戸前島は「老月村(ろうげつそん)」跡という漁村でした。江戸幕府は職人の工房と街を作って、「座」という組合を作って自分たちの権利を守ろうとしました。
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石町の鐘撞堂(鐘撞堂)と蕪村
鐘楼の下で与謝野蕪村が夜半亭と号して俳諧の集いをしていたと言われています。時の鐘が頻繁に鳴る所で句会が本当に開催されたのでしょうか?ここで言う「下」とはどういう意味でしょうか? 辻源七は、江戸時代に日本橋石町で「石町の時の鐘」の鐘撞役を務めた民間の鐘役ですが、鐘楼銭の実入りが豊かで常時7~8人の若い衆がごろごろしていたようです。鐘楼の形はやぐら形で窓もなく、鐘楼内で俳諧の集いを開催するなど無理だったでしょうから、鐘楼下というのは、下ではなくて「近くで」とか「近隣で」という意味であろうと考えます。 【辻源七の鐘撞について】 代々江戸城内の鐘役を務めていた辻源七の屋敷内に鐘楼が設けられました。 町家が建て込んできたため、1700年に屋敷裏の空地に鐘楼を建築しました。 鐘撞役の収入は、410町の家持一軒ごとに所定の金額を徴収して賄いました。 江戸の最大の城下町であった江戸の標準時を知らせ、毎刻鐘を撞きました。 石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永三年(1626)に本石町3丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したため修理や改修が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卵四月中流浣 鋳物御大工 椎名伊予藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永八年(1711)に鋳造されたことがわかります。「石町は江戸を寝かせたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町の鐘は明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造りの鐘楼へ移籍されて現在に至っています。平成十七年三月 中央区教育委員
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