大日如来の江戸での出開帳
路上に莚(むしろ)を敷いて古本を売りながら、素麺箱を机にして書き続けていた上州藤岡の「須藤由蔵」という変わり者の老爺がいました。安政年間(1855年– 1860年)の末頃には50路を超えた年齢となっており、明治の初めごろには物故したとのこと。立志伝中の人でもないので、郷里の人々の記憶にも止められていないこの由蔵がいた場所は今で言う「秋葉原駅の西側」。でっぷりとした肥満体だったらしい人でしたが、60歳余でなくなったらしい。
吉蔵が書き続けた「日記」は通称「藤岡屋日記」と呼ばれ、関東大震災に遭って一部が焼けましたが250冊ほどが残ったようです。他人の事、世のうわさを終始追いかけている。
牛込の鎮守赤木明神(新宿赤木元町の赤木神社)の地続きに天徳院という禅寺があり、そこの役僧に「金牛」とい人がいました。目から鼻に抜ける利口者ではあるが、善悪にたけたしたたかな「悪僧」であった。三宅島に遠島を命じられ島ぬけした「富安九八郎」という男や橘隆庵という医師らと組んで幾つもの悪事を重ねた。その中の一つに日本橋の「大日如来 於竹さん」の出開帳興業の顛末があるので、紹介する。
お竹さんは延宝頃大伝馬町の名主馬込勘解由の下女として働き、竹(お竹、於竹)という名で困窮者救済などの善行から周囲からは大日如来の化身とされ、尊崇を集めていた。於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。
使用したとされる井戸は1653年創業の老舗、小津和紙の一角にあったので、お竹さんの死後小津家では、関東大震災で焼失するまで、高さ約3尺の於竹大日如来の木像を祀り、毎月19日を命日として同像を開帳していた。
お竹さんは、1680年6月15日(延宝8年5月19日)に逝去した。
大日如来のお竹さん
神田今川橋に幸助という男がいた。出羽の湯殿山のお竹大日如来の出開帳を興行にしようと企てた。出羽の国の行者が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ、持仏堂を造り、その後念仏三昧の道に入る。これが江戸市中に拡がり、於竹さんを拝もうと来る人数知れずであった。没後雇い主が等身大の於竹大日如来像を奉納し、参詣者を集めた。
幸助はこの噂を聞き及び、江戸で開帳して大儲けをたくらみました。開帳の際には大伝馬町の家主たちを世話人に頼めば、商店側からも出銀が見込めると考え、幸助・金牛両名でこの計画を相談した。江戸の乗り込みを派手にやって景気をあおることが肝心と考え、文化11年7月到着という段取りを整えた。行列は千住から坂本通り、御成街道~筋違い御門~須田町~今川橋~本町3丁目~大伝馬町~浅草橋御門~蔵前~浅草観音境内念仏堂へ到着というルートを選択した。宣伝のためこのように目抜き通りを通る選択をした。
開帳の初日は7月20日、日数は60日間。役者を頼んで派手に詣ってもらい人気をあおった。景気は沸き立ち老若男女のわけなく参詣の群衆が詰めかけた。信者からの奉納も多く大繁盛で、幸助を除く元締めは大儲け。途中で費用負担できなくなった幸助は蚊帳の外で、両者の間にもめごとが発生した。何やかのいろいろあって、金牛は遠島の憂き目を見た。
出開帳企画仲間の亀裂
出開帳興業のきっかけを作ってプロジェクトを起動させた「幸助」は、金牛に梯子を外され借金まみれとなった。金牛・富安も仲間割れ。幸助はかれらを恩知らずな坊主だと恨んで、「おのれ金牛、御ある俺を富安に殺させる気だな。憎い、糞坊主め。奉行所にたれこんで、金牛らは遠島となった。
現在も小津商店裏にはお竹大日如来井戸跡の碑が設置されていますが、これは小津家としての感謝の意を示しています。於竹さんの詠んだ歌に
『手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏、口と心のひまにまかせて』
延宝8年5月この世を去る 行年58
5代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に、『ありがたや光と共に行く末は、花のうてなに於竹大日』
<参考文献>
1. 江戸巷談 藤岡屋ばなし: 鈴木棠三 2003年 筑摩書房