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山王社と神田社、と「江戸前」

江戸と山王権現・神田明神のの関係は、『慶長見聞集』の「神田明神山王氏子のこと」という条項で触れています。

「江戸町口川多しと言えども、皆堀川にて、御城の堀を廻り、日本橋へ流るる川、これ一筋本川なり。しかるに、この川より北東は神田明神の氏子、西南は山王権現の氏子なり」と。

山王権現の神輿の行列は、将軍家の上覧が終わってからは竹橋を出て、常盤橋門外を過ぎ、本町から十軒店、本石町、鉄砲町、大伝馬町等いわゆる日本橋川北岸の中心部を巡行していますので、『慶長見聞集』で示している氏子の区画は殆ど無意味となりました。神田明神の神輿も深く南岸の地域に侵入して、京橋の上の真ん中から引き返した、という言い伝えもあります。

山王権現

山王権現 山王社と神田社、と「江戸前」

中央区対象のブログですので、山王権現を中心に説明したいと思います。『中央区史』によると、山王権現は「文明年間に太田道灌が近江の日枝神社を江戸城内に勧請したものだと記していますが、太田道灌が遠い近江の日枝神社になぜ目をつけたのか何も説明していません。文明10年(1478年)、太田道灌は夢想によって天神社を城内にまつり、さらに武蔵国入間郡仙波村の星野山無量寺にあった山王社を城内に移しました。天正18年(1590年)8月、家康は入城して城内を巡り、この二小社があるのを発見しました。

この天神社が平河神社の始めであり、山王社は、明治になってから日枝神社と呼称されるようになりました。『天下祭』の記事を辿って行くと、

紅葉山にあった山王権現は慶長年中の江戸城の拡張工事に伴って、社殿は半蔵門外=三宅坂上に移されましたが、明暦の大火で社殿が焼け、溜池の上の現在地に移ることになりました。江戸城内の守り神に過ぎなかった神が(徳川氏の私的な守り神が)、江戸居住者全体の崇敬を受けるようになったという背景があるのでしょう。地理的にも、溜池の水は江戸の南の新橋川、つまり「江戸」の南の境界線ギリギリに位置しているので「江戸居住者全体」を対象としているとみなしても良いでしょう。こうして江戸の町の守り神としての面目を保ちました。

山王権現は江戸城の邸神であり、神田明神は江戸の土地の神であるということになります。神田明神は人間が入り込んでくる前から占拠していた先住の神ということになるので、神田明神がたたり神として平将門と結びついてゆく要因として理解できます。

「江戸前」といったら鮨ですよね!

「江戸前」といったら鮨ですよね! 山王社と神田社、と「江戸前」

江戸前という語は「江戸前の料理」などというように使われりした場合、「江戸式」というように民衆に理解されています。もともとは江戸前の料理とは、「江戸前の海でとれた魚を材料とした料理」ということです。さて江戸前とはどの範囲を指すのでしょうか?中央区史の「肴問屋の答書」によると、

「江戸前と唱え候う場所は、西の方、武州・品川、洲崎一番の棒杭と申す場所、羽根田海より江戸前海への入口にござ候。右、一番棒と松棒杭を見切りと致し、それより内を江戸前の海と古来より唱え来たり候」とあります。

つまり、江戸湾の北部の海域は、西側は六郷川(多摩川)の川口から北、大森・品川へかけて羽根田の海であり、北岸は下総の海です。その両者にはさまった、隅田川の川口、佃島辺りを中心とした海域が江戸前の海という事であるようです。

区史は別の説も提示しています。相模の走水と上総の富津洲との間に引いた線から内側の東京湾一帯を魚河岸膝下の漁場としてみているという説です。

江戸の定義も諸説あるので、江戸前もいろいろの説が出ています。狭義の「江戸前の海」と言えば、旧日本橋区・旧京橋区の接する海域となります。川で言えば、神田川から新橋川の川口までです。最も広義の「江戸前の海」とは、日本橋の魚河岸に直接魚を運んでくる船の行動範囲水域という事になります。

追記: 2023.03.17に「咳(せき)のまじない」というブログを上げていますが、今回大幅に修正しました。是非読んでください。

参考文献:

日本橋駿河町由来記: 駿河不動産株式会社 昭和42年3月17日発行 非売品

日本橋私記: 池田弥三郎著