司馬江漢 東海道五十三次(日本橋)着
司馬江漢の東海道五十三次と広重の絵の比較を何回かに分けてブログで私の解釈に基づき紹介します。今回は広重の東海道の出発点・江漢の到着地点である「日本橋」を取り上げます。
左側の広重の絵は江戸から京都へ向かう東海道の起点である日本橋(朝の景)。背景に高札場と晒し場が描かれており、ここが日本橋の南端であることが判ります。その東海道を描いたシリーズの巻頭を飾るにふさわしい参勤交代の大名行列が朝早く江戸を出発する様子が描かれています。また、魚を天秤棒で担いだ一団が、向こう岸の魚河岸から仕入れを終え、行商に出かける様子も描いています。江戸で一番賑わっている早朝の日本橋の活気が伝わってきます。
一方右側の絵は司馬江漢の東海道五十三次の終着地点「日本橋(着)」です。左手前にオランダ人の従者であるパタヴィア人(現在のインドネシア人)の傘持ちを描いています。パタヴィア人が江戸に来た史実はありませんが、オランダの東インド会社がインドネシアを占領していることは知られていたのでオランダ人の代わりに描いたのかもしれません。また、南蛮服のサムライが中央に見えます。印章落款に「相州於鎌倉七里ヶ浜」と書かれていますので、文化10年(1813年)夏から秋にかけて鎌倉に居住した時期に描かれたものと想像されます。オランダ商館長の江戸参府は1850年まで継続していましたから、広重が東海道53次を描いた時期には、長崎屋も石町に存在しオランダ人の江戸参府も継続していました。オランダは東インド会社を経営し、パタヴィア人を採用していたので日本にいてもおかしくないと考え登場させたのかもしれませんね。幕府はセキュリティの観点からオランダ人を一般市民に晒すことはなかったので、パタヴィア人を出現させてオランダの雰囲気を醸し出したのかもしれません。
広重の東海道五十三次の元絵は、「司馬江漢」の東海道五十三次ではないかという説があります。片方はパタヴィア人・一方は棒手振りと余りに異なっています。なぜでしょうか?
カピタン(オランダ商館長)の江戸参府
慶長14年(1609年)の商館長ニコラス・ボイクの駿府での徳川家康との謁見以来、寛永10年(1633年)より毎年春1回の江戸参府が定例化するまでは、不定期に行われていました。寛政2年(1790年)に貿易取引の半減に伴って4年に1回と改訂された後、江戸参府は嘉永3年(1850年)まで継続し合計166回に亘って行われました。
当初は前年の暮れに長崎を出発し、江戸に到着して将軍に拝礼するのが定例でした。寛文元年(1661年)からは正月に出島を出立し、3月朔日または15日に拝礼するのが慣例となりました。長崎への帰還は5,6月ごろで、所要日数は通常90日ほどでした。一行の人数は規定では59人、実際には名目以上の人数であったようです。
江戸参府は4年に1回となった寛政年間(1789年から1801年までの期間)以降は、参府休年には参府年の半分の量の献上物を持って通詞(通訳、通常は日本人です)が代参していました。司馬江漢の日本橋の絵が描かれた時期は1813年であるので、江戸参府は4年に1回となっており、日本橋でカピタンを目にする頻度は減っていたと思われます。また長崎屋に逗留中は普請役の役人や町奉行所の同心が日夜詰めて厳重に監視し、一般人とオランダ人との接触も役人立ち合いのもとで行われました。商館長一行が街中で見られるのは、将軍への謁見時だけで頻繁に見ることはなかったでしょう。
パタヴィア人が来日したとしても江漢の絵のように街中で見かけたりすることは非常に稀か皆無でしょう。想像で書かれたと思われます。
一方広重の絵の制作時期は1834年~35年と言われています。カピタンの江戸参府は1850年に停止となっていますから、最後3回ほどでカピタンの参府は終わってしまいます。江漢の絵を元絵として模倣するにしても、実際の人間を見ないで描くわけには行かず、パタヴィア人を描くのを断念して魚河岸からの棒手ふりを描かざるを得なかったのかもしれません。
司馬江漢のプロファイル
司馬江漢は延享4年(1747年)芝新銭座(現在の港区東新橋2丁目)で生まれ育ちました。「司馬」の姓は芝新銭座にちなみます。宝暦11年(1761年)15歳で父の死に遭遇した江漢は、駿河台狩野派の狩野美信に学び、19歳の頃鈴木春信の門下生として浮世絵師となりました。明和の半ばの25歳の頃に平賀源内の紹介で西洋画法を学び、彼を通じて知り合った前野良沢や小野田直武にも師事し、洋風画と浮世絵師の両刀使いとなりました。
天明18年(1788年)春、42歳の時、江戸に参府していたオランダ商館の外科医ストウツツールが所持していた『ジャイヨ世界図』を模写しました。同年4月23日長崎への旅に出ます。藤沢より西を知らなかった江漢は、富士山の姿に心を打たれ、後年富士山を数多く描いています。旅の途中で見た風景を写生する、「見たままを写し取る」という精神は、江漢の東海道五十三次の絵にも通じています。長崎に1ケ月余滞在し、オランダ船への乗船・捕鯨など多くの体験をしていました。
明和7年没した鈴木春信の贋作絵師として安永初年度迄活動した後、「二世鈴木春信」名で錦絵を出し、次第に独り立ちして「春重」名で浮世絵・洋画を描いています。天明8年(1788年)、長崎に遊んだ江漢は僧侶に姿を変え”オランダ屋敷と呼ばれた出島に入るなど謎の多い人物です。
参考文献・画像出典
司馬江漢 『「東海道五十三次」の真実』: 對中如雲著 祥伝社