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広重の東海道五十三次の出版元「保永堂」と竹内孫八

広重は初代から五代広重までいました。そんなに多くいるとは知りませんでした。

初代浮世絵師広重(1797~1858年)の父は津軽藩田中光右衛門の子で、安藤家に婿入りしました。広重は八代洲河岸定火消屋敷同心の長男として出生しました。父母没後、家督を継ぎましたが、俗称徳太郎、後十右衛門、また徳兵衛と改め与力岡島林斎について狩野家の画風を習い、また豊広の門に入って浮世絵を学び、文政7年27歳の時に同心を退いて画業に専念しました。天保三年(1837年)35歳の時に、霊岸島の絵草子問屋竹内保永堂からの注文で東海道五十三次を描いて一躍名声を得ることとなりました。

広重は始め大鋸町の貸家に居住し、弘化三年(1846年)常磐町中橋新道に移り、次に嘉永二年(1849年)夏中橋新道(中橋狩野邸の隣)に新築して移転しました。安政五年初代広重が没した後も明治9年まで家族は居住したようです。

初代広重の後、高弟重信が二代広重を名乗り広重の養女「お辰」を妻としましたが、離縁し家を出て喜斎立祥を名乗りました

深川の船大工であった寅太郎は浮世小路の懐石料理屋「百川」の養子となり、安政二年頃初代広重に入門しました。安政五年初代広重没後、二代広重に学び重政と号しました。二代広重が去るとお辰の入り婿となり三代広重を継ぎましだ。二代の広重の画格は初代広重に及ばなかったようです。

 医師の家から菊池家の養子となった喜一郎は二代広重に学んで四代歌川広重を継ぎました。菊池喜一郎名義で、『江戸府内絵本風俗往来発行』(明治38年東陽堂発行)で添付のような絵を描いています。

菊池喜一郎の次男「寅三」は書道塾を開きながら生計を立て、五代広重を名乗り画業に励みました。

参考文献: 1) 鈴木重三「広重」日本経済新聞社 1970年
 2) 江戸府内「絵本風俗往来」 文・絵 菊池喜一郎 青蛙房 昭和40年(1965年)

広重と『東海道五十三次』の版元「保永堂」

広重と『東海道五十三次』の版元「保永堂」 広重の東海道五十三次の出版元「保永堂」と竹内孫八

広重もペイペイ、保永堂も後発の地本問屋というほぼ素人の組み合わせで浮世絵「東海道五十三次」は始まりました。活動期間は短かかったのですが大成功しました、広重の東海道五十三次の版元としては版元竹内孫八は非常に有名になりました。孫八は天明元年(1781年)、江戸霊岸島塩町で質商を営む竹内孫七の次男として生まれ、二代目孫七として家業を継ぎました。竹内孫八の名で天保四年(1833年)出版業に進出し、父が経営していた質商は妻「ゑい」に任せ、東海道五十三次の発行など一時は大成功しましたが保永堂は数年で廃業しました。嘉永七年(1854年)七月、74歳で没しています。

広重の東海道五十三次の他には、天保六年(1835年)には溪斎英泉の「木曽街道」、国貞画の役者絵なども刊行しています。天保七年(1836年)正月には、南新堀1丁目湊橋西門に新たな売り場を設け、塩町の居宅との二か所で営業を行いましたが、翌八年に出版業を潰しています。「竹内眉山」名での絵師としての作品もあり、「江戸名所の内、隅田堤のさくら」「序文)四方瀧水による狂歌撰集「俳諧歌六々画像集」などを出しています。(孫八が生きていた時代の沽券図を入手できなかったので、店舗と自宅の正確な場所を特定できていません。
自宅: 霊雁島塩町
新店舗: 南新堀みなとはし西というデータから推測して沽券図に〇をつけています)

保永堂が東海道五十三次を発行した時広重は大鋸町の貸家に住んでいましたが、竹内孫八の自宅と店の場所は徒歩20分の近傍にありました。打ち合わせも相当密に出来たと想像されれます。

参考文献: 木村八重子「版元竹内孫八の事績」岩波書店 2004年