CAM プロフィール
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UNPEL GALLERY
MS&ADインシュアランスグループの「あいおいニッセイ同和損害保険株式会社」が、 創業 10 周年記念事業として、 2020 年 12 月 15 日、同社八重洲ビル(東京都中央区日本橋)に美術品の展示を行うギャラリーをオープンしています。 同社では、日本の文化芸術の継承と発展のため、メセナ(芸術・文化の支援)活動 の拠点として活用していくということです。 同社は、前身会社の一つである大東京火災海上保険の創業者が椿を愛好し、社花としたことから椿をテー マとした日本画、洋画、工芸品など約 300 点の作品を所蔵しているそうです。そして、これまで四半世紀にわたり、所蔵している作品を全国の美術館へ無償で貸し出すことを通じ、地域の文化芸術振興に貢献してきました。 今般、同社は、創業 10 周年を迎えるにあたり、所蔵コレクションの公開のみならず、さらなる文化芸術振興を目指し、若手の日本画家を対象とした発表の場の提供、また地方大学の卒業作品展示や地方と連動した企画の 実施により地方創生を推進するべく、鑑賞者に広く公開された場として、UNPEL GALLERY(アンペルギャラリー)という名称のギャラリーを開設しました。 (住所)東京都中央区日本橋3-1-6 あいおいニッセイ同和損保八重洲ビル1F)。 この名称は、同社が保有する作品のテーマである「椿」の花ことば “UNPRETENTIOUS ELEGANCE”(“気取らない優美さ”)、を語源とし、上質な企画展示を目指すこと、多くの人々に気軽 に訪れて欲しいという願いを込めたものだそうです。 UNPEL GALLERY のオープンを記念して、同社所蔵の「椿絵コレクション展」が開催されています。 展示会前期は、 蕾と大輪の花を共に描いた横山大観や小倉遊亀などの原画を中心に展示。 後期は、江戸時代の尾形光琳や竹久夢二、岸田劉生など近代の個性派画家たちが描いた椿絵が並びます。 ① 前期展示「椿咲く-初々しさを秘めた成熟に向けて」 2020 年 12 月 16 日(水)~25 日(金) ② 後期展示「新春椿絵名品展示-琳派の花 近世から近代へ」 2021 年 1 月 8 日(金)~24 日(日) (営業時間)展覧会開催期間中 11 時~19 時 (火~日開廊、月休) UNPEL GALLERY では、同社が所蔵する椿絵コレクションの展示のみならず、全国で行われている公募展優 績者の個展、美術大学卒業生の作品展、災害の記憶伝承を目的とした同社近世・近代災害史コレクションの 展覧会を開催する等、個性豊かなメセナ活動を展開していく構想だそうです。 中央区内には、「花椿通り」という愛称で呼ばれる通りがあり、株式会社資生堂のシンボルマークが「花椿」であることについては、いまさら説明するまでもないでしょう。 また、椿を描いた絵画を多く残した竹久夢二が開いた「港屋繪草子店」の跡地も存在します(八重洲1-2-1)。それらに加えて、「椿」に関わる新たな施設が加わったことを、心から祝福したいと思います。 なお、小生(CAM)は、椿の花を心から愛する者で、「CAM」というハンドルネームは、「Camellia」の頭3文字をとったものです。
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「日本橋名」再説
さきごろ、「日本橋」名の由来について、その起源は「二本橋」であったとする池田弥三郎氏の所説を紹介しました。大阪市中央区、日本橋 by CAM | 中央区観光協会特派員ブログ (chuo-kanko.or.jp) これは『日本橋私記』(昭和47年発行)で説かれたものですが、『中央区区内散歩 史跡と歴史を訪ねて(第8集)』(中央区企画部広報課編集発行、平成22年3月)では、この説を否定しています。 『区内散歩』は、次のように述べています、「池田は、日本橋は最初二本丸太を渡した程度の橋『二本橋』であっただろうといわれます。その粗末な橋は、おそらく工事用のものでしょうが、日本橋川の川幅からいって、丸太二本を渡した程度のものでは用をなさないでしょう」(25) しかし、他方では、「もっとも埋め立てに際して工事用に簡易な橋を架けていたということは当然考えられます。太い丸太を二本渡した程度のものであった可能性はありますが・・・」(19)と、矛盾したことを言っています。 池田氏は「日本橋の橋名の由来に触れた『見聞集』(慶長見聞集;江戸初期の見聞記。三浦浄心作。1614年(慶長19)刊。10巻)の前後の記事は、もう少し慎重に読むべきだろうと思う」 として、「『見聞集』では、「江戸に古より細き流れただ一筋あり」とし、これに「橋五つ」わたしてあったけれども、「みな、たな橋にて、名もなき橋どもなり」として、その五つの橋を、(1)雉子橋、(2)ひとつ橋、(3)竹橋、(4)大橋、(5)銭瓶橋、としている」 そして、「こういう『見聞集』の記載は、橋の名というものがいかに自然発生的に出来上がっていくものかを説いていて、興味がある。丸木の一本橋だから一つ橋、竹で出来ているから竹橋。 ほかのに比べて大きいから大橋。いかにも自然で平凡でありふれている」(53) また、「『紫の一本(ひともと)』という著作には『一ツ橋、日本橋(二本橋)があって三本橋がないのはどうしたことか』と書かれている。 このような『戯語』めかして書いてあることの背景に、日本橋はもともと『二本橋』であったのだが、それがいつか、同音連想で日本橋となってしまったという、その当時の人々がまだ知っていた巷間の『知識』が隠されているとみることは、決してこじつけではない」 (50)、 そして、「橋の名が、単純で端的な名付けられ方をしているのは、何も橋に限ったわけではなく、橋の名も含めて、地名の発生からしても、もともと単純であったのである」(54)と説かれるのは説得的であると私は思います。 『区内散歩』が「二本が三本となり四本となっても、最初の「二本橋」の名称が残ったというのでしょうが、無理があるように思います」(25)などと述べるのはおかしいと私は思います。 「竹橋」が木橋にかわり土橋にかわっていけば竹橋という名が残るのは無理がある?とでも言うのでしょうか。 「一ツ橋」「竹橋」などのほか、「六本木」「二本松」などなど、地名とは最初の由来がそのまま残ったものが多いのであって、必ずしも変化していく現況に合わせて「改名」されていくとは限らないでしょう。 池田氏が説かれるように、地名は、ごく自然的に発生するもので、それがそのまま変わらずに維持、継承されていくケースが多いのではないでしょうか。 架設された慶長8年(1603)当時は、家康公入府の天正18年(1590)から、まだ10年程度しか経過しておらず、その周辺は、まだ葦や薄の生い茂る荒涼たる地帯であったはずです。 そこに架けられた「工事用の粗末な橋」を「日本橋」というような大仰な名で呼んだとするのは無理があるように私は考えます。 歴史・由来を考える場合は、「後知恵」で判断するのではなく、常に当初の時点に立って考えるという態度を失ってはならないのではないでしょうか。
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