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軍艦操練所跡

 築地6丁目20番地域に設置されている「軍艦操練所跡」標示板には、安政4年(1857)、幕府は、築地のこの地にあった講武所内に、旗本や御家人などを対象とする軍艦教授所を創設、後に軍艦操練所と改称したこと、施設は元治元年(1864)に焼失したため、隣接する松平安芸守の屋敷に仮移転し、慶応2年(1866)7月には海軍所に改称したこと、しかし同年11月には、再び類焼し、現在の浜離宮恩賜庭園の地に移転したこと、跡地には日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられたこと、などが記されています。

 司馬遼太郎著『燃えよ剣』では、土方歳三が、文久3年に江戸を発って上京、その後、あしかけ5年目の慶応3年秋に江戸へ帰郷した際、江戸の変化に驚いている歳三への茶店の親爺の語りとして、「鉄砲洲の軍艦御操練所のあとへも、”ほてる”とかいう異人の宿がこの夏から建って、近くの十軒町の連中が、むこうの空がみえねえと、半分冗談でさわいでいるほど、たいそうなものでございます」と述べています。

 

 既に紹介したように、『竜馬がゆく』でも、「築地本願寺から橋を一つ、東へ渡ると、南小田原町である。もう海のにおいがする。さらに東へゆくと、かつて芸州藩の下屋敷のあったところ、ごく最近まで幕府の講武所がおかれていた一角があり、その向こうは海である。そこに、安政四年以来、幕府の軍艦操練所がおかれている」と述べられています。

 

 こうした歴史小説は、地名になじみがあり、距離感が分かると、興趣が深まりますね。