達磨

新しき年 穏やかに墨田川…芭蕉翁・広重師に会う。

寒風。いま日が沈み、新大橋のオレンジ色の支柱が光る(写真左)。橋の中央にある主塔には広重のレリーフがはめ込まれている、と。名所江戸百景「大はしあたけの夕立」安政4年(1857)は歌川広重の代表作。

【新大橋の歴史】元禄6年12月(1693)現在より下流に創架。20回以上の破損・流失・焼失などを経て町方の費用維持で存続。明治18年(1885)西洋式木橋、明治44年(1911)現在地でトラス鉄橋に架け替え、市電が通る。関東大震災で焼け落ちることなく、人助け橋と称された。現在の橋は昭和52年(1977)に建て替えられた。

歌川広重(浮世絵師)寛政9年(1797)-安政5年9月(1858)は火消屋敷の八重洲河岸に生れ、北斎に刺激を受けて、ゴッホやモネに影響を与えています。 広重の絵には江戸の情景が溢れています。芭蕉と共通する詩情を感じます。

松尾芭蕉は最初の新大橋の工事中に「初雪やかけかかりたる橋の上」と詠み、橋ができた元禄6年(1693年)12月には「ありがたやいただいて踏む橋の霜」の一句があります。

芭蕉は延宝(1680年)に日本橋小田原町から、広く知られている禅宗の仏頂和尚(深川の臨済宗臨川寺に滞在)を頼って深川に移り住んでから以降、没年の元禄7年(1694年)に至る15年間をこの地で過ごした(最初の深川芭蕉庵石碑文)。境野勝悟氏著「芭蕉のことば100選」で『芭蕉の一句、俳文のふとした言葉には自然の姿といのちの光が降り注いでいる」と、評価しています!

写真右に真白に光る像が見えますでしょうか。「芭蕉庵史跡展望庭園」です。

新大橋から江東区側墨田川テラスを下流清澄橋に向かいます。

芭蕉庵史跡展望庭園から清洲橋を望む。

芭蕉庵史跡展望庭園から清洲橋を望む。 新しき年 穏やかに墨田川…芭蕉翁・広重師に会う。

新大橋左岸下流を歩きます。手入れされた墨田川テラスの植え込みには「大川端芭蕉句選」が掲げられています。江戸と房総を結ぶ「小名木川」と墨田川の合流地点、堤防高台「芭蕉庵史跡展望庭園」には芭蕉翁の「座像」が置かれています。川上は新大橋、両国橋…「花の雲鐘は上野か浅草か」…。下手は清洲橋、墨田川大橋、箱崎のビル街を望みます。像は夕刻5時になると新大橋に向いていたのが清洲橋に向きを変えます❕今はちょうど清洲橋の方角。

芭蕉は富士と墨田川が見えた萬年橋の近く(展望庭園傍)に住居しました。歌川広重は名所江戸百景「深川萬年橋」で大胆な構図の亀と富士を描いています。江戸東京博物館・大浮世絵展・広重章に出品中。