落語の舞台”中央区”
1907年(明治40年)東京市が発行した地誌『東京案内』によると、東京市内に落語・色物の寄席が75軒ありました。この中には人形町「末広」や神田の立花亭・上の鈴本亭なども含まれます。講談を主体した寄席はほぼ各区に一つあり24軒でした。合計で141軒と言われています。
明治から大正にかけての時期には、源氏節・八木節などが全国的に流行し、関西では河内音頭が台頭し寄席が普及しました。
「大正時代の寄席分布図」のように、人形町・蛎殻町から現茅場町を中心とした岡崎町・北島町・八丁堀仲町・八丁堀幸町まで多くの寄席がありました。私の父親から聞いた記憶をたどると、北島町の菊松亭と寿亭のどちらかは廃業し戦前には映画館に代わっていたようです。
寄席の歴史
天保年間(1830年~43年)に寄席と呼ばれるようになりましたが、その当時は一定の演芸場はなく、船宿や茶屋のような広い家を借りて興行をしていました。次第に大衆に歓迎され、文化元年(1804年)頃には江戸に三十三軒ほどの定席が出来、文化十二年(1815年)には75軒、文政八年(1825年)には130軒になりました。出演者が増えるに従い、
前座・二つ目・三つ目・四つ目・中入り前・中入り跡・膝がわり・真打という階級もでき、昭和になると前座・二つ目・真打
という現在の三階級が出来て、簡略化されました。天保の改革で一時衰退するものの、水野忠邦罷免後の弘化元年(1844年)になると66軒に回復しました。明治期には一町に少なくとも一か所の寄席があり、その収容人員は100名程度でした。木戸銭は普通36文程度で、下足札4文、中入り10文、6文のくじというオプションもありました。このように値段のはらない寄席は庶民の大衆娯楽の殿堂であり、現在に至っています。
当時の席料を現在の貨幣価値に換算してみましょう。
36文→ 1,080円
下足札4文、中入り10文、6文のくじを加えても合計56文ですから1,680円です。お江戸日本橋亭の定席の入場料は2,000円ですからほぼ江戸時代と変わらない大衆演芸と言えるでしょう。
落語の舞台となった中央区
中央区に寄席が多かったためとは思いませんが、中央区を舞台とした落語が多くあります。添付の資料を見ていただくと判りますが、日本橋・人形町(蛎殻町)・茅場町・新富町に集中していて、銀座と京橋を舞台にした落語は少ないように感じます。落語の舞台の場所を巡りながら古典落語を聞くというガイドがあったら、最高ですね!