江戸時代最初の銭湯はどこに?なぜバスタブを「湯船」と呼ぶの?
1600年初頭より昭和10年(1935年)までの300年以上に亘って、日本橋魚市場があったことはよく知られています。これから数回のブログで魚河岸の歴史を真面目に記述する予定ですが、江戸の庶民が利用した「銭湯」とか鶏問屋など面白そうな話を挟みながら紹介したいと思います。
徳川家康が入府後行われた「江戸の大普請」の一環として、江戸の日比谷入江に注いていた「平川」は日本橋川に接続され、江戸湾からの船も江戸城の東側に上って来るようになりました。本格的な江戸市街の造営が開始されると、この付近は賑わいはじめ「四の日」には四日市が立ち、米穀・薪炭・着物などと共に魚も売られるようになりました。町屋が開かれるようになり、将軍の侍医「曲直瀬道三法眼(まなせどうさんほうげん)が住んでいたことから「道三橋」と名付けられました。
森孫右衛門の長男九右衛門は幕府の魚御用を務める傍ら、道三掘に近い現在の常盤橋あたりの道三河岸町に魚店(うおだな)を開きました。将軍家上納を主体とした小規模なもので、次第に大きくなる江戸城の御膳を賄えなくなると、同族や同郷の者らが次第に店を開き、魚河岸のようなものが出来始めます。
道三橋の北側に小さな魚市場が、堀を隔てた南側に青物市場が出来ました。
道三河岸の賑わい
道三河岸には遊女屋・銭湯もできます。天正19年(1591年)伊勢与一が銭瓶橋のたもとに開いた「蒸し風呂」が最初の銭湯と言われています。黎明期の湯屋(ゆうや)は湯船はなく蒸気浴です。
時代が移っても水は貴重であり、燃料の薪も高価であり内風呂を持ている家はほとんどありませんでした。江戸っ子は一日に何度も湯屋へ行くために、肌は乾燥していたそうで「垢ぬけた」といって粋がったようです。
江戸時代後期には江戸市中に600軒を数えたと記録が残るほど、江戸っ子は風呂好きだったようです。入浴料金は大人八文(約120円)、そば一杯の値段の半分です。銭湯の多くは町屋の多い繁華街にあったので、郊外の人々は利用することが出来ませんでした。江戸の町の堀・川に浮かべた船にバスタブを乗せ、移動式銭湯として回遊したことから「湯船」という言葉が生まれました。
湯船
船着き場に、船頭や船旅の客らを入浴させる船が現れましたが、これが湯船です。はじめは浴槽はなく、湯を入れた桶(おけ)を積んだだけで「行水船」と呼ばれていました。それがやがて浴槽を設けた屋形船になり、港や河岸に横付けして商売をするようになりました。湯船の入湯料は銭湯の半分=4文だったと言われています。
四日市地区は江戸随一の繁華な場所となりましたが、江戸市街の本格的な造営が開始されると道三河岸の魚河岸は日本橋の埋め立て地区に移転することになります。本格的な「日本橋魚河岸」の話は次回から。
参考文献:
1) 徳川将軍家の真実: 山下昌也著 (株)学習研究社 2007年刊
2) 日本橋魚河岸物語: 尾村幸三郎著 (有)青蛙房(せいあぼう) 1984年刊
3) 魚河岸百年: 魚河岸百年編集委員会 (株)日刊食料新聞社 1968年刊
4) 中央区沿革図集[日本橋編]: 東京都中央区教育委員会 1995年刊
5) 日本橋魚市場絵図面: 中央区指定有形文化財(築地3丁目16-4 金子家所蔵)