道三河岸から日本橋地区へ魚市場が移転: なぜ日本橋川沿いの本船町でなく本小田原町に移転したのか?
日本橋を中心とした埋め立てによる「江戸湊」の完成で、道三掘舟町にいた材木商は日本橋の本材木町(現在の日本橋1丁目付近)に移され、船具・麻取り扱い商店は本船町(室町1丁目)に移されました。銭瓶橋南の青物市場は本船町の対岸(四日市町)に移り、元四日市町・青物町となり、道三河岸は武家屋敷となりました。
道三掘河岸を追われた森一族は、本船町に移転したい旨の意思表示を幕府にしましたが許可されませんでした。そこは上述のように船具・麻取り扱い商が移り住んでいたからです。
慶長九年(1604年)からの江戸城普請の時、小田原の石工 善右衛門一行が江戸城の石垣造りのために石揚場として使ったので小田原町と命名されたと言われていますが、事実は異なると思われます。「石揚場」ではなく、単に石工が住んでいただけなのです。伊勢町堀は行き止まり(現在の福徳稲荷の直前辺り)になっていて、石はここには運搬されても江戸城に運搬する手段がなかったので石揚場にはなりませんでした。恐らく石は鎌倉河岸や八丁堀の船堀に到着し、本小田原町に住んでいた石工はそれらの船堀または江戸城に出勤して働いたのではないでしょうか?石垣造りは、慶長九年から元和六年(1620年)頃まで15~16年間継続しました。
魚河岸移転先の本命は本船町であったが!
家康入国の当初、森一族は小田原町河岸500歩を拝領し、魚河岸を開きました。森孫右衛門の後ろ盾になっていたのは日本橋小網町と小石川に屋敷のあった「安藤対馬守」です。石垣が完成すると、石工は江戸城近辺に住む必要もなくなったので築地の南小田原町への移転を強いられ、森一族はやっと移転できました。
本船町ははじめ大舟町といいました。大舟町の名称は堀をへだてた小舟町との対比であり、その起源は道三河岸の舟町に発しています。本船町は慶長の町割りで下舟町となっており、本船町は船具・麻販売の商店に占有されていました。将来の発展性を考えれば、本船町に移転したかったのでしょうが、残念ながら詰まっていたのです。
参考文献:
1) 徳川将軍家の真実: 山下昌也著 (株)学習研究社 2007年刊
2) 日本橋魚河岸物語: 尾村幸三郎著 (有)青蛙房(せいあぼう) 1984年刊
3) 魚河岸百年: 魚河岸百年編集委員会 (株)日刊食料新聞社 1968年刊
4) 中央区沿革図集[日本橋編]: 東京都中央区教育委員会 1995年刊
5) 日本橋魚市場絵図面: 中央区指定有形文化財(築地3丁目16-4 金子家所蔵)