教えてあげるね。
手に、あわあわの石けんをつけるでしょう。
くしゅくしゅって、指の間も洗って、手首も洗うんだよ。
幼稚園に通っていた孫が、洗面台の前で秘密を打ち明けるようにささやいた。
「石けんで手を洗う方法、教えてあげるね。」
真剣に、丁寧に、おそらく園で指導を受けたとおりに、実演してくれた。
子供にとって、大人に知識を教えるというシチュエーションは、快感なのだろう。
成長期の子供にとって、まるで自分が大人になった気分になる、この上もない楽しいことなのだ。
それから一週間ほど過ぎたとき、福岡の幼稚園に通っていたもう一人の孫が、耳元で言った。
「石けんで手を洗う方法、教えてあげるね。」
どの幼稚園でも、手洗いについてしっかり指導していることに感心した。
おそらく「大切なことだから、家の人にも教えてね」という大好きな先生の言葉を、しっかり実践してくれたのだろう。
二人の園児から続けて手洗いの方法を教えてもらった私は、幸せな気分で胸がいっぱいになっていた。
これまでは、外から帰るたびに「はい、並んで。手を洗って」と言って、カランに手が届くように踏み台を置いていた。
その踏み台は、もう必要なくなっていた。
2020年5月。特派員ブログに「みんな、せっけんで手を洗おう!」を載せた。
佃・月島界隈を舞台とする、羽海野チカさんの漫画「3月のライオン」。
その主要な登場人物である「あかり、ひなた、モモ」の三姉妹が、石けん手洗いを勧めるポスターがある。
公共機関にも貼りだされていたので、目にした方も多いと思う。
そのほんわりとしたイラストをブログに載せたいとの思いで、白泉社編集総務課さんへ連絡した。「感染症対策のための使用ならば」ということで進めさせていただいた。
この冬は、インフルエンザや新型コロナの感染者数は増加しているという。
でも私たちは、三密を避けるなど、すでにその予防法を身につけている。
当時、手洗いや、手指消毒、マスク着用などが日常生活の中に根付いていた。
「3月のライオン」は、15歳でプロ棋士となった「桐山零」が主人公である。
活躍する舞台として、佃・月島・新川、そして将棋会館のある千駄ヶ谷が登場する。
もちろん作品の中では違う町の名前なのだが、随所に実在する場面が出てくるので、作品を身近に感じることができた。
中央大橋は隅田川に架かる。東岸は佃一丁目、西岸は新川二丁目。
桐山零は、この橋を日常的に渡っている。
橋は2径間連続鋼斜張橋。全長210.7m。
壮大なケーブルが美しく、力強く、激しく、悲しく、主人公の心のひだを表すように変化する。
橋が短く感じられたり、長く感じられたり、渡り切れない障害となることもあった。
朝、昼、夜と多様な顔を見せ、風の日、嵐の日には、ケーブルがグオーンと悲鳴をあげた。
隅田川テラスのこの場所も「3月のライオン」によく登場する。
標高の基準となる平均潮位の測定を行った霊岸島検潮所・量水標跡には、シンボル柱が設置されている。
桐山零と川本姉妹が無邪気に触れ合う場面は、心が和んだ。
近未来的なデザイン、尖った三角フレームは、登場人物たちの動きに合わせて多様に見え方を変えてくる。
将棋界において、藤井聡太さんの快進撃が始まったのは、このころだったろうか。
アニメを超える現実に、唖然とし、そして拍手喝采した。
漫画を超える活躍をする若者が、次々に躍り出てきた。
撮りためた佃・月島の写真の中で、気に入っている一枚がある。
佃の駄菓子屋「山本商店」。子供達からは「ちょうべえ」と親しまれていた。
2020年5月に閉店。
自転車で集まった子供達の、とても素敵な社交空間が広がっていたのだ。
ここには川本さんちの、あかりも、ひなたも、モモちゃんも、間違いなく通っていたはずである。