幕末の名漢方医「尾台榕堂」記念碑
八重洲通りから一筋入った柳通りのダイビルの前に「尾台榕堂之碑」が建てられています。患者を診療している尾台榕堂と調剤している女性の像で記念碑にこのような像があるのも珍しいです。
尾台榕堂(寛政11年1799-明治3年1870)は将軍家茂の侍医も務めた幕末の名漢方医で、この碑は出身地の信濃魚沼郡、現在の新潟県十日町市が旧居付近に2010年に建てたもの。16歳の時江戸に出て医師の尾台浅嶽に学び師家を継ぎ浅田宗伯と共に「江戸の二大名医」として称えられました。
上記は文久3年の尾張屋版の切絵図の一部ですが、この尾台榕堂が開業していたのが当時の北槇町、現在の京橋1丁目付近とされています。二大名医の片方の浅田宗伯(文化12年1815-明治27年1894)も当時は上槇町(八重洲1丁目)に住んでいました。浅田宗伯は腰背の激痛で苦しむフランス公使ロッシュを漢方薬と鍼治療で快癒させ皇帝ナポレオン三世から時計2個と絨毯3巻を授与されています。7-8年前に国立公文書館の展覧会で「多聞櫓文書」の奥医師のリストに浅田宗伯の名前を見つけ友人と興奮したのを思い出します。大坂城で倒れた将軍家茂を診察し「重篤」と診たて、その1週間後に家茂が亡くなったので名医の評が益々高くなりました。天璋院による将軍慶喜の助命の書状を西郷隆盛に届けたのもよく知られているところです。明治維新後は明治天皇の侍医も務める傍ら、牛込横手町にあった自身の診療所では患者が引きも切らず64歳で年間3万人近くの診療にあたったという記録が残っているそうです。診療を待つ患者を目当てに診療所前に茶屋が出来ていたとか。「浅田飴」の創業者・堀内伊三郎は浅田家の書生で水飴の処方を譲り受け、創業したのが浅田飴とのこと。宗伯は明治になっても駕籠に乗り慈姑頭で診療に向かっていたそうです。
参考:浅田飴HP 「江戸切絵図集成」