小川橋の由来
~ 小川橋跡 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をイーガーに取材します、rosemary sea です。
久松警察署の隣りに久松児童公園があります。
その道路側は「小川橋跡」と呼ばれており、「小川橋の由来」と書かれた碑があります。
今回はこちらの碑にスポットをあててみましょう。
それでは・・・
小川橋の由来
この地は江戸初期に開さくされた浜町堀で大川に接し物資の輸送路として大きな役割を果たし後に浜町川と呼ばれたところである。
明治19年(1886年)12月3日払暁(ふつぎょう:いわゆる「明け方」)馬喰町(ばくろちょう)にピストル強盗事件が発生し、久松警察署小川佗吉郎巡査(読み方不明です・「たきちろう」と読むのでしょうか?)は現場に急ぐ途中、橘町(現在の東日本橋3丁目)付近で不審なあんま姿の男を発見、格闘となり重傷を負いながら浜町河岸まで追跡し、その男を捕えた。
その男は清水定吉(しみず さだきち)といい、当時10年余にわたりピストル・日本刀を持って東京府内を荒し廻り、その間の被害は80余件にのぼり、5人を殺害するなど、稀代(きだい)の兇賊(きょうぞく)であった。
小川巡査はこの功により2階級特進し、警部補に任命されたが、当時の傷がもとで明治21年(1888年)4月26日、24歳でこの世を去った。
東京府民は小川警部補の尊い死を惜しみ、この地の橋を小川橋と名付け、不滅の功績を讃えた。
世は移り浜町川も埋め立てられ、ゆかりの橋もその姿を消したが、その跡地に由来の碑を建立し、小川警部補の功績を顕彰する。
昭和49年4月26日 建立
警視庁創立100年記念
久松警察署創設100年記念
建立 久松協力会
協賛 地元各連合町会
この「小川橋の由来」碑は、久松児童公園の入り口に建てられています。
この児童公園には、遊具やじゃぶじゃぶ池があります。
広いとは言えませんが、隣りは久松小学校、久松警察署という安全な立地。
小さいお子さんたちにはお楽しみ、お待ちかねの徒渉池ですが、今年は新型コロナウィルス感染拡大防止のため、ここを含む区内区立公園4園のじゃぶじゃぶ池は、例年より始期を遅らせて開催するそうです。
この日もお掃除は念入りにされていました。
前方、画面の方向を見ても、水路であったことが窺われます。
そしてこの少し後方には浜町緑道公園があります。
緑道公園は・・・
何度もご説明しましたが、東野圭吾さんの小説「新参者」では、第4章「時計屋の犬」で、時計屋さんの愛犬「ドン吉」の散歩ルートとして描かれたところ。
そして「麒麟の翼」では、冒頭で犯人と疑われた男が身を隠し、警官に追われ新大橋通りに飛び出し車に轢かれたところ。
そして更に「祈りの幕が下りる時」では、最後の場面で看護師の金森さんが歩き、浜町公園のスポーツセンターまで抜け、加賀刑事に会いに向かった途中のところ。
3作ともに描かれている公園、それが「緑道公園」です。
・・・お話を戻します。
由来碑にもありましたように、浜町堀という水路があったところ。
小川橋も今はありませんが、更にその前は「難波橋(なにわばし)」と呼ばれていたようです。
なぜ難波橋と呼ばれていたか、それはここ日本橋富沢町・日本橋人形町2丁目は江戸期には「難波町(なにわちょう)」と呼ばれていたので、橋も「難波橋」だったのでしょう。
明治4年には少し統合して「浪花町」と改称されたそうですが、橋は「難波橋」。
ですが橋の名前も変えてしまう事件、実は日本初の拳銃強盗犯の仕業でした。
1899年「ピストル強盗 清水定吉」という題名で、日本最初の劇映画として映画化されました。
小川巡査は加賀藩士の家柄だったそうです。
背中とお腹に傷を負ったにもかかわらず犯人を捕らえた勇敢な行い、しかしその傷がもとで亡くなってしまいました。
このブログでも2014年1月15日に橘さんが「小川橋ー勇敢なお巡りさん」として書かれています。
橘さんがおじいさん・おばあさんからお聞きになっていたこのお話、感慨深いです。
「小川橋の由来」碑
日本橋久松町1-1
東京メトロ日比谷線・都営浅草線 人形町駅 A4出口の久松警察署・明治座さん側(人形町交差点側ではありません)を出て右へ少し。
金座通りを約270m左側、久松警察署の手前、笠間稲荷神社 東京別社のななめ前。
人形町駅から約5分。
※ 上の画像で、碑の後方に建つ建物が久松警察署です。