夜行列車

浮世小路と福徳神社

日本橋室町二丁目、中央通りから「COREDO室町1」

と「YUITO ANNEX」の間を抜ける通りが「浮世小路」

で、その名の由来は、一説には、かつて「浮世ゴザ」

(石畳が描かれたゴザ)を扱う店が多かったからと

いわれています。

また、江戸時代、この周辺に加賀出身の町年寄

「喜多村」家があり、同郷の住民も多かったのか、

ここでは「小路」を加賀言葉で「しょうじ」

と読みます。

 

そして、この小路を入った先(現在「福徳神社」の鳥居があるあたり)は、掘割(西堀留川)の先端

となっており、堀の両側には「塩河岸」が続いていました。

江戸時代、この小路の東端北側に江戸屈指の料亭「百川」がありました。

安政元年(1854)ペリー再来航の際には、使節団の饗応料理500人分を横浜まで出向いて作りました。

また、この店は、落語の演題『百川』(この百川に奉公にきた百兵衛さんの方言にまつわるお噺)

でも有名ですが、明治に入って忽然と消えてしまったようです。

 浮世小路と福徳神社

 

浮世小路を入って少し歩いた左側に朱色の鳥居も鮮やかに

「福徳神社」が配されています。

この神社は、9世紀後半、当地福徳村の稲荷神として祀られ、

その地名をとって社号としたとのことです。

主祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、五穀主宰の神です。

 浮世小路と福徳神社

徳川家康が天正18年(1590)江戸入府直後に参詣、二代秀忠

も慶長19年(1614)正月に参詣「福徳とはまことにめでたい

神号である」と称賛し、椚の皮付きの鳥居に春の若芽が萌え

出ているのを見て、別名を「芽吹神社」と名付けました。