「通り三軒の漆器店」はどこ行った?黒江屋さんだけが残った
本年5月4日に「擬宝珠とギボウシ(植物)」というタイトルでブログを発表し、その中で江戸時代の擬宝珠が日本橋の「黒江屋」にあることを紹介しました。黒江屋の”漆原さん”がこれを読み、好感を抱いていただいたようで中央区観光協会に連絡がありました。私にその旨の連絡がありましたので、良い機会だから黒江屋さんの近況をお聞きしようと考え6月1日に訪問しました。黒江屋さんのビジネスと歴史については、2017年にRosemary Seaさんが2回に亘って詳細にレポートしていますので、そちらのブログを見てください。そこでは余り触れていない「日本橋の漆器店の歴史」を紹介したいと思います。漆原様には今回執筆の参考となる資料も頂き、掲載の許可を頂いております。
ところで余計な話と思うでしょうが、日本=japan(文字の最初は小文字です)は漆器のことを指すということをご存知ですか?今回のブログのテーマは「黒江屋」さんですので、こちらは別の機会に。
江戸元禄の頃から日本橋通り町に3軒の「漆器店」がありました。これらを総称して、『通り三軒』と呼び、戦前まで親しまれていました。「木屋」「きん藤(きんとう)」「黒江屋」です。
かつて室町二丁目に木屋幸七(久兵衛、小間物諸色問屋・塗物問屋)があった
創業は天正元年(1573年)、初代林久兵衛が徳川家康の招きで江戸へ出て開業しました。大阪の店と二つに分かれたので、姓の”林”を二分割して、「木屋」と命名しました。漆器の木屋は江戸の末期からの商売です。熈代勝覧の室町二丁目に木屋幸七(久兵衛、小間物諸色問屋・塗物問屋)があります。絵巻作成当時には普請中だったようで店の様子は見えませんが。これは刃物で有名な木屋の分店ですが、同系列の刃物店に併合されてしまい、現在漆器は取り扱っていません。
通二丁目に「きん藤(きんとう)」があった
「東京市15区及び接続郡4郡地籍地図並びに地籍台帳」を参照すると、「日本橋区」の『通り一、二丁目・佐内町・平松町・川瀬石町』の部の左下に山本山海苔店があります。そのハス向かいが『きん藤漆器店』です。上の地図は江戸時代の沽券図に相当するものですから、『きん藤』ではなく土地の所有主の「小林藤右衛門」と書かれています。
弘化2年(1846年)頃埼玉から江戸へ出て、日本橋通り南二丁目付近の十九文横丁に店舗を立ち上げました。この横丁は何でも十九文で売っていたことから通称このように呼ばれたようです。近くの太物商「近江屋」を譲り受けて、屋号を近江屋の”近”と小林藤右衛門の”藤”を組み合わせて「近藤」と名乗りましたが、「コンドウ」と間違えられることから、明治40年「きん藤」に改めました。以来漆器専門店として積極的に販路を広げ財をなしました。昭和4年(1929年)にはオーナーの小林藤右エ門氏が延坪数=1,089坪(3,600㎡)の5階建てビルを建て、他人の目を見張らせました。
通一丁目(現日本橋一丁目)の『黒江屋』
黒江屋漆器店の創始者は元禄二年紀伊國名草郡黒江村から江戸へ出て、本町四丁目に漆器店を起こしたと伝えられます。柏原家の6代目に当たる柏原正真氏は黒江屋をM&A(しゃれてますね。多角化が柏原家のビジネスの信条のようです)して、それ以来柏原家の事業とし、安政三年(1856年)の春に、現在の通り一丁目と西河岸町に移転し現在に至ります。
文政7年(1824年)刊行の「江戸買い物独案内」によると、江戸の塗物商は、十組、一番組と二番組に分かれ、計25軒が記されています。黒江屋は室町一丁目の伊勢屋利助に次いで二位を占め、大奥の御用・諸大名、旗本の出入を務めていました。1859年開港と同時に横浜にも支店を出しています。
第二次世界大戦後は戦災による被害の復興に着手し、店舗を再建・地方産地と連携して江戸以来の漆器の老舗として現在に至っています。
参考文献:
1) 徳川将軍家の真実: 山下昌也著 (株)学習研究社 2007年刊
2) 近世漆器工業の研究: 半田市太郎著 (株)吉川弘文館1970年刊
3) 東京漆器の歩み: 東京都漆器商工業協同組合 1968年刊
4) 中央区沿革図集[日本橋編]: 東京都中央区教育委員会 1995年刊