「亀島小橋」を探して~デジタル古地図めぐり
日本橋川と隅田川をL字に結ぶ亀島川には、八重洲通りが通る亀島橋、さくら通りの延伸線が通る新亀島橋という橋があるのはわりとよく知られていることと思います。
ところが先日「京橋区史」を眺めていると、綴じ込みの地図の1つ(冒頭)に亀島川の支流というか、亀島川からの入堀がクランク状にくっきりと描かれていて、河口近くに「亀島小橋」という橋まで架かっていました!「亀島」の名前を冠する3番目の橋ということになります(勝手に彩色しています)。
これはちょっと面白そうだと思って入堀の変遷を調べてみたところ、思いもよらずさまざまな地図に出会えたので、それも含めてのレポートです。
御府内沿革図書(ずしょ)
まずは冒頭の地図の正体。京橋区史には似たような地図が2枚綴じこまれていて、それぞれ「元禄年中之形」「享保七寅年中之形」というタイトルはありますが、詳しい出典が書かれているわけではないようでした。
しかしそこはネットの時代。ちょっとググると、それぞれ「御府内沿革図書(ずしょ) 」に収録されていた地図だったことがすぐにわかりました。
国会図書館デジタルコレクションで見てみると、当該の2枚だけでなく、延宝年中(1673~1681)~文久2年(1862)にわたる6枚があり、どの地図にもクランク状の入堀が描かれていました。しかも最初から彩色されていてわかりやすいです(上図)。
とにかく御府内沿革図書だけでも、江戸時代の間、かなりの長期にわたって、少なくとも1862年の幕末近くまで入堀と亀島小橋が存在していたことはわかりました。ただ、このままではおおまかな位置はわかっても、正確に、現在のどの場所にあたるのかを特定するのは困難です。
東京五拾区縮図
「東京の区政は明治11年に15区から始まった」とされることが多いですが、明治維新で東京府が誕生した直後の明治2年3月に50組制(直後に50区制と改称)という地域区分がありました。これは「朱引の内」と呼ばれた市街地を50分割したもので、(人形町の)元吉原がそのままのかたちで「新吉原江戸町」になっていたりと、なかなか興味深い分け方でした。
※明治11年からの15区も、エリア的には「朱引の内」を分割したものです。
そんな50区時代の地図『東京五拾区縮図』が特別区協議会によって公開されています。表紙を見ると「庚午九月改」となっていますから、明治3年(1870年)のもののようです。
その中の「六番組南茅場町その他」の地域の地図が上図。文久2年(1862)からたった8年経っただけで、入堀の西側部分が埋め立てられて馬場になっていることがわかります。
また、入堀の河口に接して、少し字が消えかかっていますが「稲荷」という文字が読めます。どうやらこれは「純子稲荷」のことではなかろうか・・と思われます。
第一大区沽券地図
もう少しだけ時代を下がってみます。50区制が明治4年に大区小区制に替わった後の地図がありました。膨大な古地図をweb公開している東京都公文書館所蔵の「第一大区沽券地図」というものです。
沽券というのは土地の売買証文のことで、沽券図というのは家屋や土地を地図上で示したもの。その結果、実際上は「住宅案内図」にもなるというスグレモノです。
(沽券にかかわる・・という言い回しもここから来ているらしいです)
公開されていたのは1873年のもの。五拾区縮図の3年後です。さすがに3年では様子は変わらず、L字型になった入堀が大きく描かれています。
面白いのは入堀に架かる橋が1つ増えていること。そして謎なのは純子稲荷がどこかに消えてしまっているということです。(小さな稲荷なので記載漏れでしょうかね??)
東京市拾五区区分全図と地籍地図
50区制→大区小区制と下がって来たので、今度はいよいよ15区時代の地図です。15区になったのは明治11年ですが、見つけることができたのは明治40年(1908年)のものでした。これも特別区協議会の所蔵です。(画像左)
これを見ると・・・重要なランドマーク、「新亀島橋」が描かれています(新亀島橋の創架は明治15年)。そしてとても読みにくいですが、赤く塗られた場所に「イナリ」という文字も見えます。新亀島橋と純子稲荷の位置関係は現在と同じですね!
しかし、肝心の入堀が何とも心もとない細さ!もはや入堀というよりも排水路か側溝という感じか・・と思っていたら、さらに少し下がった明治45年(1913年)の地籍地図(画像右)の上記の水路部分に「暗溝」という小さな文字が添えられていました。
「暗溝」というのは聞き慣れない言葉ですが、調べてみると「暗渠と同じ」とありました。なんと、明治40年の時点ですでに地面の上からは見えない存在になっていたのですね。
画像出典:
『東京市拾五区区分全図 第一 日本橋区全図』:公益財団法人特別区協議会
『東京市拾五区及接続四郡地籍地図並びに地籍台帳:日本橋区』:中央区沿革図集より
直感で推定してみると・・・
これまで見てきた地図をもとに入堀の現在地を推定してみると、
・新亀島橋と純子稲荷の位置関係が現在と同じであること。
・入堀の河口は純子稲荷の南側に隣接していること。
ということから、いかにもそれらしいルートが見えてきます。上記の画像の左側の地図(現代の地図です)がそれです。また、実際の風景を見ると、ビルの間を縫うように細い路地がずっと続いています。
浜町川跡の路地、竜閑川跡の路地と少し似たような雰囲気も。しかも現:すずらん通りで路地が突き当たっているというのも、そこで入堀が南に折れたから、という理由にも思えます。
・・・しかし、昔の地図を現在に引き直す際に忘れてはならないのが、あの「震災復興事業」なのです。
震災復興事業
明治40年までに、亀島川入堀は(少なくとも地上から)姿を消したことはわかりました。
しかし入堀は消滅しても「L字型に曲がった道路」という、かつての入堀の痕跡はその後の地図でもずっと存続していました。ある時期までは。
そう、「ある時期」とは、大正12年の関東大震災と、その震災復興事業の実行時期です。
復興事業までは、東京の街区は、いわば江戸時代の街区をそのまま引き継いだものでした。しかし、復興事業の実施によって新しい大きな道路が続々と誕生し、その道路を基準に引き直された街区も多いのです。それらの新街区は太平洋戦争による戦災でもあまり変わることなく、現在の街区に引き継がれていることが多いようです。
これまで参照してきた地図には、復興事業で生まれた「新大橋通り」「八重洲通り」「さくら通り(の延伸線)」といった、現茅場町の主要な区分線がまったく入っていません。
ここはやはり震災前後の地図を重ね合せてみる必要がありそうです・・・
国土地理院の地図の重ね合せ
実は新旧地図の重ね合せというのは最初に考えたことでした。真っ先に利用してみたのは京橋図書館が提供してくれている新旧重ね合せ地図(すべて5千分の1縮尺で統一)です。
しかし、実際にやってみるとわかるのですが、旧地図のほうは測量誤差があったり、印刷の都合もあったり、さらに手作業での重ね合せはちょっとした指の動きで簡単に数mくらいずれたり、とかで新旧を「ピッタリ一致」させるのは(私にとっては)至難の業ということがわかり、いったんはあきらめていました。
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そんなとき思い至ったのが国土地理院の地図。国土地理院といえば、戦前は「内務省地理局」とか「参謀本部測量課」で、長年にわたって精密な測量を手掛けているところ。そんな地理院の地図同士の重ね合せであれば、精度の点で全く問題無いのではなかろうか??・・と考えて国土地理院のサイトにアクセスしてみたところ・・・
今回の場所が含まれている旧1万分の1地形図「日本橋」について、大正時代だけでも6枚、昭和で7枚も保有されていました!これは使えそうです。
ところが・・・webで公開されている画像は非常に解像度の低いものでした。高精細のものは地理院事務所で閲覧するしかないとのこと。
webでの重ね合せのシステムも公開されていましたが、そちらは航空写真との重ね合せで、残念ながら今回の目的には使えそうにありませんでした。。。
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なんとかならないかな・・とあちこち探していると、すごいサイトが見つかりました。埼玉大の先生がどうやら個人サイトとして公開しているもののようで、国土地理院の地図同士を重ね合せたり、並べたりして比較できるというサイトです!「今昔マップon the Web」というものです。
これは強烈でした。
しかもやってみてわかったのは、重ね合せよりも並べてみたほうがわかりやすいということ。(マウスカーソルが新旧地図の同じ場所に表示されて、連動して動きます)
しかし、動きは精密なのに、どうやら原点座標がほんの少しずれているようなのです。そのまま信じれば入堀はさくら通り(の延伸)と重なっているようなのですが、他が少しずれているだけに、それを結論とするのは少しためらわれます。
画像出典:「今昔マップon the Web」
帝都復興事業の区画整理前と整理後の対照図で結論が出た
デジタル地図だけを頼るのは限界がありそうなので、アナログ地図を色々あたってみました。
見つけたのが、中央区沿革図集日本橋編に収録されている、「昭和5年 帝都復興事業の区画整理前と整理後の対照図」というもの。まさに今回の目的にピッタリです。(第15地区が該当)
見開きで、左ページが整理前、右ページが整理後になっていてとてもわかりやすいのですが、目検だけでは精密な比較ができません。
そこで・・・それぞれのページをスキャンしてデータ化し、整理前の地図の街路を赤で彩色して半透明化、それを整理後の地図に重ねてみたのが上の図です。(是非拡大してご覧ください)
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黒く見える道路が整理後、つまり現在の道路で、赤い道路が整理前のものになります。
新大橋通りとさくら通りという2つの大きな道路が、以前の街区に頓着せずに町並みをぶった切っていることがよくわかります。逆に、平成通りとすずらん通りは微動だにしていなかったのですね。
そして肝心の入堀跡はというと・・・河口に近い部分は路地として残っているわけではなく、今では完全にビルの下になっているようです。直感での推定はアテにならなかったですね・・(T_T)
なので、探していた亀島小橋は、(昔の地図での位置関係は無視して)どうやら現在の純子稲荷の北隣、消防団の建物前の道路のあたりにあったと考えるのが良さそうです。
純子稲荷は、公式サイトによると、震災だけでなく戦災でも全焼してしまったとのことですが、昭和48年に再度再建された際、昔の場所よりは少しだけ南にずれたと考えないといけないようですね。
画像出典:中央区沿革図集収録「昭和5年 帝都復興事業の区画整理前と整理後の対照図」
※沿革図集の解説に記されている地図の出典「帝都復興区劃整理誌. 第3編 各説 第2巻」を国会図書館デジタルコレクションで確認すると、収録されているものとは別の比較地図になるようです。(???)
現場検証してみると
左の画像が、新亀島橋から茅場町のほうを眺めた風景です。視線を下(左下)のほうに向けると、不自然にコンクリートが出っ張っている部分があります。
さらによく見ると(画像右)、まるで暗渠を塞いだような丸い跡が!
地籍地図にチラっと記されていた、明治時代以来の「暗溝」の跡にほかならないような気がしませんか?
場所的にも、地図の重ね合せで推定した場所とピッタリ合います。かつてはこの河口(と言っていいのか)から数歩歩いた下の写真のあたりに「亀島小橋」が架かっていたのかもしれませんね(^^)