『新参者』 10年を考察 番外編 ①
~ 柳橋 ~
『ギフト、そして自分も楽しむ』をファンタスティックに取材します、rosemary sea です。
「『新参者』と人形町 10年を考察」シリーズの番外編としまして今回、「人形町」ではありませんが、人形町より程近い東日本橋の「柳橋(やなぎばし)」にフォーカスしてご案内したいと思います。
柳橋は、6月9日掲載の「『新参者』と人形町 10年を考察 ⑨」 にてご説明させていただきましたとおり、小説及び映画「祈りの幕が下りる時」で、事件のキーとなる、カレンダーに書かれていた12の橋に入っています。
前回説明時の一部訂正も含めまして、後ほど述べさせていただきます。
それでは、最初に「柳橋」につきまして、多方面からご説明させていただきます。
中央区 説明板
柳橋
柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井の頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川へ注ぐ全長25kmの都市河川です。
この位置に初めて橋が架かったのは、元禄11年(1698年)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。
「柳橋」の由来については、
(1) 矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2) 柳原堤の末ことに由来する。
(3) 橋のたもとに柳の樹があったことに由来する。
このように所説ありますが、真説は不明です。
明治維新後、柳橋は新橋とともに花街(かがい)として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
区では平成3年度に、優美な形にしたこの橋を後世に伝えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街にちなんで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を貼って再生しました。
また夕暮れより照明を演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感をもたせました。
橋梁の諸元
形式 タイド・アーチ橋
橋長 37.9m
有効幅員 11.0m(車道6.0m、歩道2.5m×2)
建設年次 昭和4年(1929年)12月
春の夜や 女見返る 柳橋
贅沢な 人の涼みや 柳橋 どちらも正岡子規
中央区教育委員会 説明板
柳橋
所在地 中央区東日本橋2丁目
台東区柳橋1丁目
(神田川)
柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。
その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平石右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄10年(1697年)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。
その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、
柳橋 川へ蒲団(ふとん)を ほうり込み
と川柳に見られるような賑わいぶりでした。
明治20年(1887年)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923年)の関東大震災で落ちてしまいました。
復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。
柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋(えいたいばし)のデザインを採り入れ、昭和4年(1929年)に完成しました。
完成から70余年(この説明板の書かれた平成14年)、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成3年(1991年)に整備し、同11年(1998年)に区民有形文化財に登録されています。
台東区 旧町名由来説明板
旧 浅草柳橋(あさくさやなぎばし)
浅草柳橋はいくつかの町が統合され、昭和9年(1934年)に誕生した。
町名の由来は、神田川の隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。
柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。
ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。
「柳橋」は、元禄11年(1698年)に初めて架けられた。
神田川が大川(おおかわ:隅田川の別称。中央区流域より上流の、墨田区吾妻橋1丁目と台東区雷門2丁目をつなぐ橋・吾妻橋【あずまばし】より下流の隅田川は江戸時代、こう呼ばれていました。)にそそぐところにあったことから、その当時は、川口出口之橋(かわぐちでぐちのはし)と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。
現在の橋は、昭和4年(1929年)に架けられたものでローゼ形式の橋である。
台東区教育委員会 説明板
台東区柳橋1丁目1番1号
この橋は、元禄11年(1698年)に、神田川が隅田川に注ぐところに架けられ、最初は、「川口出口の橋」と呼ばれた。
近くに幕府の矢の倉があったことにちなみ、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいう。
柳橋は享保頃からの呼称らしい。
橋の名の由来には、
○ 柳原堤の末にある
○ 矢之城を柳の字に書きかえた
○ 橋畔(きょうはん:橋のたもと)の柳にちなむ
など所説ある。
鉄橋に架け替えられたのは明治20年(1887年)で、現在の橋は昭和4年(1929年)に完成した。
江戸時代、橋畔は船宿が並んで賑わった。
幕末・明治以降、柳橋は花柳界(かりゅうかい)として名を知られ、多くの文人・墨客(ぼっかく・ぼっきゃく:書家や画家)が題材に取り上げている。
また柳橋は落語にもよく登場し、「船徳(ふなとく)」等はこの地を舞台にした噺(はなし)である。
【柳橋ゆかりの人々】
● 成島柳北(なるしま りゅうほく)
1837-1884
幕末の江戸幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、明治時代のジャーナリスト。
蔵前生まれ。随筆集『柳橋新誌(りゅうきょうしんし)』を著わした。
● 小林清親(こばやし きよちか)
1847-1915
明治時代の浮世絵師。
「元柳橋両国遠景」で、往時の柳橋周辺の情景を描いた。
● 正岡子規(まさおか しき)
1867-1902
明治時代の俳人・歌人。
句集『寒山落木』の中で、
春の夜や 女見返る 柳橋
と詠んだ。
● 島崎藤村(しまざき とうそん)
1872ー1943
詩人・小説家。
今の柳橋1丁目に住み、柳橋を題材にした随筆「新片町にて(※)」を発表し、小説「沈黙」の中では大正期の柳橋界隈を情景豊かに書いている。
また、代表作の「春」「家」などの作品も柳橋在住のときに発表した。
※ 「新片町(しんかたまち)」は柳橋の旧町名。
なお、「新片町より」「新片町だより」は確認できましたが、「新片町にて」は確認できませんでした。
● 池波正太郎(いけなみ しょうたろう)
1923-1990
小説家。
時代小説「剣客商売(けんかくしょうばい)」などの作品で柳橋界隈を取り上げている。
「中央区 説明板」に書かれていましたとおり、花街にちなんで橋の欄干に「かんざし」のレリーフ(浮彫り)がいくつも飾られています。
「玉かんざし」でしょうね。その玉、いわゆる宝石部分の赤いものを撮影しましたが、ここが青いものもありました。
柳橋は、かつて江戸随一の歓楽街でありました両国とはすぐ近く、そして吉原方面への渡船場でした。
そしてここ柳橋自体も芸者さんの街でしたので、料亭や船宿などが建ち並ぶ、とても情緒あるところでした。
現在も川の両岸に並ぶ屋形船の発着所が並んでいますので、雰囲気は十分なのですが、芸者組合は20年ほど前に解散してしまっています。
6月9日の『新参者と人形町 10年を考察⑨ ~ 書籍表紙に描かれている中央区 ~ 』でご紹介させていただきましたとおり、このアングルは小説「祈りの幕が下りる時」単行本の表紙と同じです。
小説「祈りの幕が下りる時」のでは、事件のキーとなるカレンダーに書かれていた12の橋の中、1月のところに「柳橋」が登場していました。
映画「祈りの幕が下りる時」では5月のところに変わっています。
(6月9日の記事ではこれを間違えて「小説=5月」と説明してしまいました。申し訳ございません、訂正させていただきます。)
では、なぜ小説と映画で橋の順序が変わってしまったのでしょうか?
ここからはロズマリの推測です。おそらく正解と思いますが・・・。
小説ではクライマックスに登場する橋が、12の橋の中で「左衛門橋(さえもんばし)」になっています。
映画では「柳橋」。
6月4日の銀造さんの記事「左衛門橋は三つの区の区界 馬喰町、横山町へもいらっしゃい!」でもご説明がありましたとおり、「左衛門橋」は中央区・千代田区・台東区の3区にまたがって架けられています。
つまり許可の問題。
そしてこう言っては申し訳ございませんが、映像にするには「左衛門橋」は地味な橋。
その点「柳橋」は、濃い緑のフォルムも綺麗で、他の映画・TVドラマでも数々の登場シーンがあります。
女優さんに例えますと、「一流」と「三流」の差があるかと。
キャスティング変更は当然の成り行き、と思われます。
今回もまた、江戸古典落語をご披露します。第7回となりました。
台東区教育委員会 説明板にもありましたとおり、ここを舞台としましたお噺「船徳(ふなとく)」をご紹介します。
まず、「船徳」の背景から・・・
柳橋は、かつて江戸随一の歓楽街でありました両国のすぐ近くで、吉原方面への渡船場でした。
また、柳橋自体も芸者さんの街として発展していました。
料亭や船宿が建ち並ぶ、とても情緒あふれるところでした。
現在も川の両岸にひしめく屋形船の発着所にその面影がありますが、芸者さんの組合は20年ほど前に解散しています。
船と言いますと皆さんは現在の大きな「屋形船」を思い浮かべると思いますが、このお噺で出てまいります船は「猪牙船(ちょきぶね:イノシシの牙のように先が細長くとがった屋根なし舟)」という小型船、お客は通常2人が乗れるだけ。
船足は速いのですが、かなり揺れますので、しろうとには漕ぐのが少し難しい船。
柳橋の船宿から吉原入り口の山谷堀(さんやぼり)まで約3km、川をさかのぼるとしてもそれほどの距離ではないのですが・・・。
それでは・・・
「船徳」
道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿に世話になっている若旦那・徳兵衛さん、船頭になりたいと言い出します。
親方「若旦那、きゃしゃな体で船頭にはなれやしません。
竿(さお)は3年、櫓(ろ)は3月、と言いやす。
辛抱できますか?」
「もちろん。」
船頭たちからも同意が得られ、親方もそれを認めます。
それからは「徳」と呼ばれることとなり、船頭の仲間入り。
ある夏の暑い日、船頭が出払い、徳さんが船を出すことに。
船は揺れる揺れる、危なっかしい扱いに、
客「若い衆さん、大丈夫かい?」
徳「大丈夫です、この前はひとり客を落としてしまいましたが。」
それからも同じところを3度回ったり、石垣にぶつかりそうになったり。
徳「お客さん、石垣を傘で突いてください。」
客「傘が石垣に刺さってしまったよ。」
徳「もうそこには2度と戻れません、傘を諦めてください。」
疲れてきた徳さん、汗が目に入り「前から船が来たら、お客さん避けてください。」などと言い出す始末。
ついには浅瀬に乗り上げ、お客に下りてもらうことに。
ぐったりの徳さんに向かい、
客「若い衆さん、どうした?」
徳「お客さん、岸に上がったら、船頭ひとり雇ってください。」
柳橋
東日本橋2丁目28地先
中央区東日本橋2丁目と台東区柳橋1丁目を結ぶ橋。