新しい生活様式下で振り返る江戸時代のお酒文化
こんにちは。アクティブな活動はしばらくお休み中のHanes(ハネス)です。
今年は在宅勤務の普及や飲食店の営業時間短縮に伴い、オンライン飲み会の開催や家でお酒を飲まれる方が増えました。
特派員ブログの読者の方々の中にも、外で飲むより家で飲む機会が増えたという方もいらっしゃるかもしれませんね。
今回はそのような社会現象にヒントを得て、「お酒」をテーマに江戸時代の中央区の一面に焦点を当ててみたいと思います。
運河・新川の役割と新川大神宮
他の特派員の皆さんがご紹介しているように、中央区内には国内外の美味しいお酒を楽しめるお店がたくさんあります。
そんな中央区ですが、江戸時代にはどうだったのでしょうか?
その答えは、1660年に河村瑞賢が開削したと伝えられる運河・新川を知ると自ずと分かってきます。
新川は、船から物資を荷揚げする河岸地の役割を果たしており、1948年に埋め立てられるまで重要な運河として機能。
江戸時代においては、日本酒の銘醸地上方から運ばれてくる下り酒の問屋筋として栄えました。
当時、酒を木樽に詰め、専用の樽廻船で江戸へ輸送していましたが、その際、樽の破損を防ぐ目的で菰(こも)を巻き付け(菰冠(こもかぶり)のはじまり)、菰には他の銘柄と区別するため各銘柄の特徴を表すデザインが施されました。(参考:新川大明神の「奉献 清酒菰樽」案内板)
1625年に創建された新川大明神は、酒問屋・酒造家の守護神として崇敬を集めており、毎年新酒が届くとその初穂を神前に献じ、その後で新酒を販売していると言います。
敷地内には、当時の新川に思いを馳せることのできる菰樽等が奉献されています。
私自身日本酒は飲まず、これまでこういった話題とは無縁でした。
しかし、今回の社会現象を機に中央区内でお酒に関する歴史を調べてみたところ、興味深い運河の役目や日本酒にゆかりのある場所と出会うことができました。
今後は樽廻船、下り酒問屋、菰のデザイン等について、もう少し深堀りできればと思います♪