小江戸板橋

「最悪の将軍」  綱吉公の残影

 

隅田川の河口から数えて、五番目の橋。

永代橋。

ブルーの塗装色、緩やかな曲線を描く形状は、近未来をも想像させる。

スチールアーチ製の重厚な橋は、国指定の重要文化財である。

 

永代橋は、元禄11年(1698年)に創架された。

一説に、5代将軍徳川綱吉の50歳を祝し架けられたといわれ、末永く代々続くようにとの願いを込めた慶賀名である。

さて、文治政治を推進しながら、庶民からも犬公方と揶揄された綱吉。

毀誉褒貶が激しいその人物像を、少し探ってみたいと思った。

 

 「最悪の将軍」  綱吉公の残影

富士見櫓は、江戸城本丸跡に現存する随一の三重櫓。大嘗宮・皇居乾通り特別公開時に。

 

綱吉は、3代将軍徳川家光の四男として、正保3年(1646年)江戸城に生まれる。

長兄家綱の後を継ぎ、延宝8年(1680年)に35歳で将軍宣下を受けた。

宝永6年(1709年)に64歳でなくなるまで、28年5ヶ月に渡り、政(まつりごと)の先頭に立っていた。

綱吉が初期に行った施策は「天和の治」と称えられ、8代将軍吉宗は享保の改革の中にその方向性を活かしている。

 

 「最悪の将軍」  綱吉公の残影

明暦の大火(1659年)で天守が焼失した後には、天守の代わりとして用いられた。

 

しかし、「生類憐れみの令」のような極端な施策は、江戸期を通じて悪政の代名詞ともなった。

また、衆道に走り、倫理を超えた唾棄すべき数々の所業は、後に脚色されたものとの説もあるが、そのような闇を併せ持っていたことは否定できない。

 

書店の平積み台で、直木賞作家の「朝井まかて」さんの一冊が目にとまった。

集英社文庫、夏の一冊。

『最悪の将軍』

題名の示すところが5代将軍であることは、直ぐ結びついた。

女流作家は、綱吉の闇を悪逆ぶりを、どの様に描くのだろうか。

 

 「最悪の将軍」  綱吉公の残影

湯島聖堂(文京区湯島1丁目)。杏壇門から大成殿を望む。

 

湯島聖堂は、元禄3年(1690年)に綱吉によって、儒学の振興を図る目的で創建された。

後の寛政年間に幕府直轄の学問所となる。

昌平坂学問所である。

 

綱吉が目指したのは、戦国の殺伐とした気風を改め、学問を奨励し、徳をもって治める政。

武ではなく、法という「文」を用いるのだ。

それには苛烈な賞罰厳明が伴った。

 

 「最悪の将軍」  綱吉公の残影

 

大成殿。孔子像や四賢人賢人を祀る。

関東大震災で焼失後、昭和10年(1935年)伊東忠太博士の設計により、鉄筋コンクリート造りで再建された。

屋根は銅板葺で、緑青に輝く。

両端で頭部から水を噴き上げている聖獣は、鬼犾頭(きぎんとう)。火災を封じる水の神。

獅子に似た鬼龍子(きりゅうし)も、屋根上から睨みをきかせている。

想像上の霊獣で、聖人の徳に感じて現れるという。

(伊東忠太博士の設計による築地本願寺にも、多くの聖獣が潜んでいました。)

 

 「最悪の将軍」  綱吉公の残影

台北市のライオンズ・クラブから寄贈された。

孔子の銅像としては、世界最大の高さである。

 

大樹寺は、静岡県岡崎市にある。

将軍家の菩提寺であり、位牌堂には14代までの歴代将軍の位牌が並ぶ。

臨終時の身長に合わせて、等身大に作られたという。

綱吉の位牌は、124cm。

平成29年度の文部科学省学校保健統計調査によれば、小学2年生男子の平均身長は122.5cm。

江戸期の成人男子は、およそ155cmだった。

 

作者は、御台所である鷹司信子を通し、『所作が美しいせいか、綱吉の肩や背中には誰よりも強い光を帯びている』ように見えたと表現する。

綱吉は猿楽舞、能を愛好した。

能楽で鍛えた所作の美しさが、居並ぶ警固の偉丈夫をも圧する威光を放ったのだ。

 

 「最悪の将軍」  綱吉公の残影

中野区区役所前にある「お囲い」の犬の銅像。

 

中野に設けられた「お囲い御用屋敷」と呼ばれた、犬の保護施設。

広さは約30万坪におよび、一時期には10万頭もの犬が収容されていた。

近年、「生類憐れみの令」を儒教に基づく文治政治の一環として捉え、再評価する動きが出ている。

捨て子を禁じ、傷病者の放置を禁じ、生き物の殺生を禁ずる。

その法を守らせるために、厳罰で臨んだ。

 

作者は、オランダ商館長の江戸参府に随行した医師ケンペルに語らせる。

『この扶桑の国のように、命を重んじるよう命じた王など、欧羅巴には一人もおりませぬ。』

 

 

 「最悪の将軍」  綱吉公の残影

江戸城本丸跡に立つ石碑

 

綱吉の治世に、「最悪の」と付けうる位の天災地変が、次々と押し寄せていた。

相次ぐ大火、地震、洪水、飢饉、浅間山噴火、そして富士山の大噴火。

元禄14年3月14日、勅使馳走役の浅野内匠頭が江戸城松之大廊下において、吉良上野介に刃傷に及ぶ。

どう対処していくか。

政を動かす者の苦悩が続く。

 

 「最悪の将軍」  綱吉公の残影

護国寺(文京区大塚5丁目)の観音堂(本堂)。

 

護国寺は、綱吉の生母桂昌院の発願で、天和元年(1681年)に創建された。

綱吉は、多くの神社仏閣の修復や再建、歴代天皇の陵墓の修復などを行っている。

 

作者は、綱吉が手を合わせ、跪き、頭を垂れる姿を描き出す。

ひたすら天に、神仏に、祈る姿である。

『扶桑の民はいかなる災厄に遭うても、必ず立ち上がる』

 

 「最悪の将軍」  綱吉公の残影

 

文章を追うにつれ、私は、あたかも江戸城中を羽織袴で歩いている心持ちになった。

江戸城御殿の構成図を見比べながら読み進んでいくと、殿中を行き来する大名や侍達、大奥の女性達の衣擦れの音が響いてきた。

 

護国寺の本堂を出て不老門に至ったとき、お犬様ではなく、にゃんこ様のくつろぎすぎる姿を見つけた。

眠り猫ならぬ、へそなめ猫のやすらぎに満ちた姿があった。