はとば公園にハト???2
こんにちは、湊っ子ちゃんです。
以前、「はとば公園にハト???」という記事を書かせていただきました。(2019.12.2)
明治時代、築地外国人居留地が置かれたときに、”波止場”だった場所です。ところが、鳩があまりにもたくさんいて、まるで”鳩場(はとば)”みたい!とお伝えしました。
そして今回、大スクープ写真! が撮れましたので、急遽その2を書かせていただきます。
ご覧ください。はとば公園のすなばに、はとが座っています。湊っ子は、じつを言うと、この絵がほしくて、じっと機会をうかがっていたのです。
前回の写真では、砂場の石段のうえに鳩がいる写真でした。かろうじて、砂場が写っているので、泣く泣くその写真に甘んじた湊っ子でしたが、しかし本当は、砂場のなかにいるところを撮りたい…と、どんなに願ったことか…!
はとば
すなば
はと
に、引っかけています。おわかりいただけますでしょうか。
このようなことばかり言っていては、いけませんので、波止場だった頃のお話を書きたいと思います。
♪ 築地鉄砲洲は波止場のある町
明治に入り、東京(築地鉄砲洲)開市にともなって、東京・横浜間を結ぶ乗合船ができました。日本橋小網町の廻船問屋松坂屋弥兵衛と、横浜弁天通り3丁目の鹿島屋亀吉が運営した稲川丸。
それに対抗して、アメリカ人ジェイ・エム・ホイトが始めたシティ・オブ・エド号。このふたつが、2トップで競い合っていました。その頃は、発着場は永代橋のあたりだったそうです。
明治3年のお正月から、新しい発着場、いまのはとば公園のあたりが、東京の波止場となりました。人々の輸送だけでなく、さまざまな物資も行き来しました。
湊っ子のひとりごと‐
波止場からは、築地ホテル館や、まだ更地だらけの築地外国人居留地が見えたんだろうなぁ。海岸線には、ユリカモメがずらっと、並んでとまっていたのかなぁ~。‐
東京からは、紙や材木、お茶や昆布、畳の表や煙草なども横浜へ運ばれました。いっぽう、横浜からは、干鰯や、南京米、南京大豆などが東京へ入り、その後諸国へ廻送されることもありました。
大いに賑わった東京・横浜間の乗合船でしたが、稲川丸とシティ・オブ・エド号の競争は激しくなり、その無理がたたって、同年7月、シティ・オブ・エド号は爆発事故を起こしてしまいました。築地の波止場を出た直前のことでした。
このとき、佃島の人々は自分たちの船を出して、必死に救助にあたったそうです。
湊っ子のひとりごと‐
そのほかにも、大正の関東大震災や、いざというときに、佃島の人々は船で救助に向かった、という話を読んだことがあります。佃島ってすごいなぁ!と、感動しました。‐
このような事故があったので、人々は乗合船を使うことをためらうようになりました。
そんななか、明治5年になると、品川・横浜間、新橋・横浜間の汽車が開通され、次第に陸輸送に移り変わり、また、築地外国人居留地が整備され、異国情緒ただよう町並みが形成されるにしたがって、船の輸送は荷物が中心となり活気づいたということです。
参考文献「中央区区内散歩 第3集」中央区企画部広報課 平成7年刊
あら?じっと見ていたら、居心地がわるかったのでしょうか、鳩が腰を上げ、歩きはじめてしまいました。
みなさんも、お天気のよい日などは、はとば公園の鳩たちに、ぜひ会いに来てくださいね!
♪ 中央区立はとば公園
中央区築地6丁目19-24
中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
第105号 令和2年9月17日