銀造

新富座 京橋税務署は、建替え工事が終了 令和2年12月14日(月)に新庁舎へ移転

 東京メトロ新富町駅を下車して、付近を散歩しました。 中央区湊、築地に勤務時代には、京橋税務署、中央都税事務所に納税の申告書を持参したものです。 その京橋税務署の建物が新築されました。こちらの京橋税務署の執務の開始は、令和2年12月14日(月)です。 お知らせは、次の通りです。https://www.nta.go.jp/about/organization/tokyo/location/tokyo/kyobashi/iten.htm

 そして、京橋税務署北側には、「新富座」の説明碑も更新されました。

 

新富座について 探してみよう「新富座」という日本酒

新富座について 探してみよう「新富座」という日本酒
 新富座 京橋税務署は、建替え工事が終了 令和2年12月14日(月)に新庁舎へ移転

 新富座についての説明板を拝見しますと、

新富座は万治三年(1660年)木挽町五丁目(現在の銀座六丁目、昭和通り西側)に創建された『森田座』を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。 

『森田座』は代々森田勘弥が座元で、天保十四年(1843年)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政五年(1858年)に『守田座』と改めました。明治五年(1872年)には、守田座十二代勘弥が新富町に移転進出し、明治八年(1875年)に『新富座』と改称しました。

 新富座は市川団十郎、尾上菊五郎、市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行いました。 劇場は近代的な様式を問い入れた大規模な建物で「東京第一の劇場」と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町をなっていました。 明治22年(1889年)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失しました。

  新富座を背景に名優たちが描かれている明治期の錦絵からは、往時の繁栄ぶりがうかがえます

  令和二年八月   中央区教育委員会

※最後の下線部が、以前の表示から更新されています

 以前、近くの酒屋さんで「新富座」という日本酒の四合瓶を見つけました。今でも販売されていれば嬉しいですね。

 

新富町の名前の由来

新富町の名前に由来について、

中央区の名前の由来・紹介を参照すると、「地名の由来については、旧来からの大富町に対して付けられたという説と、新島原と大富町からそれぞれ一字をとったという説がある」とのことです。

 このような事も教わりました。

 江戸期は武家地。1868年(慶応4.明治元年)、築地の外国人居留地を目当てにした新島原遊郭が置かれた。しかし思い通りの集客が得られず、1871(明治4年)6月に取り払いを命じられ、花街は新吉原に移転。 その跡地に新富町が成立したとのことが書かれています。