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日本人が初めて自転車に乗ったのは新川?
松平春嶽公、霊岸島福井藩邸にて

新川には江戸時代に福井藩の江戸中屋敷がありました。幕末にこの中屋敷でお殿様が自転車に乗ったのが日本人でが初めて自転車に乗ったときという話があります。

新川にあった旧町名 越前堀の由来

新川にあった旧町名 越前堀の由来 日本人が初めて自転車に乗ったのは新川?
松平春嶽公、霊岸島福井藩邸にて

新川地区には新川に町名が統合されるまえに越前堀という町名がありました。おおむね新川地区の南東側、鍜治橋通りの隅田川側一帯でしょうか。この町名は江戸時代にこの地に福井藩(越前)松平家の中屋敷があったことに由来しています。この屋敷は隅田川岸から今の明正小学校あたりまで含む広大な屋敷で、舟運が物流のメインだった当時にあってこのような立地の良いところに屋敷を拝領できたのは藩祖が家康の次男秀康だからでしょうか。そしてこの中屋敷を取り囲んでいた堀を越前堀と呼び町名の由来となりました。堀は明治以降徐々に埋め立てられ昭和40年代に最後まで残っていた一部(ちょうど中央大橋のあたり)が埋め立てられました。今では越前堀公園にその名前がかろうじて残っています。

発掘された石垣の石が街中や公園に。

発掘された石垣の石が街中や公園に。 日本人が初めて自転車に乗ったのは新川?
松平春嶽公、霊岸島福井藩邸にて

この掘割の両側は土が崩れないように石垣になっていたのですが、道路の拡幅工事などで発掘されています。この石垣石が越前堀公園や発掘されたところの中央大橋に続く八重洲通沿いの植樹の石に使われていて説明版が設置されています。

 日本人が初めて自転車に乗ったのは新川?
松平春嶽公、霊岸島福井藩邸にて

新川二丁目交差点付近の八重洲通に設置の説明版

松平春嶽、謹慎中に自転車に乗る

さて、幕末に活躍した大名の一人に越前福井藩主松平慶永(春嶽)という人がいます。この人は幕末に公武合体派の重鎮として幕府最後の時期に慶喜らと幕府のかじ取りを行い、明治新政府でもで初期には重職につきました。

この人は大老井伊直弼の反対派に属していたので安政の大獄では隠居謹慎を命じられ、この新川にあった福井藩中屋敷にて謹慎していた時期があります。この時期を記録した日記に文久2年(1862)2月6日霊岸島の藩邸でビラスビイデ独行車に乗ったという記載があるそうです。ビラスビイデ独行車というのは大きな三輪車のようなものだったと考えられ、何年か前に福井県で復元されています。横浜で陸揚げされたのを組み立てたようで現代の自転車とはだいぶ違うもののようです。ちなみに何年か前に放映されたドラマで、春嶽が自転車に試乗しているところに坂本龍馬が訪ねてくるシーンがありました。これは前輪が大きくて後輪が小さい初期の2輪車でしたが。

その後もたびたび乗ったということなのですが、謹慎中で暇だったんですかね。まあ好奇心も旺盛だったからその後も活躍できたんでしょうね。

自転車のことは仕事で福井市に行ったときに時間があったので近くにあった歴史博物館を訪ねた際、説明文に「霊岸島」とあるのが目が留まり知ったのがきっかけです(学芸員さんに訊いてみました)。霊岸島(今の新川全体の旧名)と旧名表記だったことから現中央区新川が自転車初乗りの地というのはほとんど知られていないかなと思います。

最近、旅先で中央区にある地名など関連を見つけるとついつい注目してしまいます。そういえば同じ福井藩士の橋本佐内も安政の大獄で伝馬町牢獄で斬首になってるんですね。